【いくとせ寄り添うは、紫陽花の君】/恵千果◆EeRc0idolE




 ふいに雨が降り始めた音がして、わたしは窓の方を見た。さっきまで明るかった窓の外はいつのまにか暗さを帯び、勢いよく斜めに落ちてくる雨が、低い音を立てながら次々に窓硝子にぶつかっては流れて落ちてゆく。
 突然の夕立に書きかけのペンを止め、しばし見とれた。頬杖をつきながら、これが、“七つ下がりの雨”かと思う。六月の夕闇につつまれた部屋のなかで、驟雨に濡れる窓硝子。
 数日前に入梅したというニュースを見たせいか、この数日は雨空の頻度が増えて来ているように感じる。
 ペンを置いて椅子から立ち上がり、わたしは窓に近づいてそこから見下ろせる裏庭を見やる。視線の先には、雨露に身を委ね、尚一層ほころびを早めているような青紫の花が揺れていた。
 この花を見ると感傷的になるのは、いったい何故なのだろう。大好きな花を一心に見つめながら、わたしは無意識に記憶の小路を遡り始めていた。あのいとけない日々の隙間に、雨上がりの陽射しのように優しく射し込んで来た、ひとすじのひかりのような出来事を。
 今年もまた、“紫陽花の君”の季節がやって来たのだ。


 ***


「行ってきまーす」
「祈里、雨だから気をつけるのよ」
「はあい」

 あの朝、ランドセルを背負い学校へ向かうわたしが玄関を開けると、音もないくらいに細かな小糠雨が降り注いでいた。
 まだ登校時間までには余裕がある。わたしは檸檬色の傘を開いて雨の中を歩き出し、裏庭に回る。
 そこには、葉を繁らせてはいても、まだ花をつけていない紫陽花が、霧雨を浴びて微笑むように佇んでいた。
「おばあちゃんにもらった紫陽花、まだ咲かないなあ……。早く何色か知りたいのに」
 落胆の念がため息へと姿を変えて、ほうっと口をついて出る。
 美希ちゃんは、“絶対に青よ”と言い、それに対するが如く“ううん、赤に決まってるよ”とラブちゃんは言った。そんなふたりの間をとるように、“紫色かも知れないよ”と言ったわたし。
 だけど、その後のあの約束は、いったい誰が言い出したのか。
 ――間違えたひとは、正解したひとの願いを、ひとつだけきいてあげること。どんな願いでも、必ず叶えてあげること。――
 もしもわたしの想像した色が正解だとしたら、その時は……。脳裏に浮かんだ少女のはにかんだ表情を思い描く。彼女があんな顔を見せるのはわたしと、もうひとりの幼馴染みくらいなものだ。
 強気に見えて、意外にもかなりの恥ずかしがり屋。すべすべとした肌や髪に触れると、“くすぐったいじゃない”と笑いながら、いつもするりと逃げられてしまう。
 だからいつか、逃がさないように腕の中に抱き止め、花香がふわりと薫り立つあの髪に顔を埋めたい。あらがう隙を与えず、思うままに抱きすくめたい。
 こんな密やかな野望を身の内に育てていることを、無論彼女は知るはずもない。
 けれど、何故だろう。いまだこうして花を咲かそうともせず、少しばかり強情にも思えるこの紫陽花だけは、わたしの気持ちに気づいている。そんな錯覚を受けるのだ。
 この花にとっては、秘められたわたしの心なんてどうでもいいに違いないし、せいぜい一笑に付すくらいのものだろう。 そう判ってはいる。判ってはいるのだけれど。ほんの一瞬、意識を翔ばしたその刹那に見たのは、“お前の望みが叶うといいねえ”などと戯れ言めいた台詞を紫陽花が紡いでくれる、そんな都合のよい白昼夢。
 後から後から追いかけてくる果てのない妄想を慌てて振り払い、わたしは通学路を目指して歩き出した。

 “紫陽花の君”。この頃、わたしは彼女のことを心の内で秘かにこう呼んでいた。六月生まれの彼女には、ぴったりのネーミングだと、人知れず自画自賛する。
 艶やかな蒼い髪や凛とした佇まいも、あの慎ましい花を容易く連想させた。
 あの頃のわたしは、級友の男の子たちにからかわれ、追いかけられることが少なくなかった。必要以上に反応し逃げ惑う様が、彼らのほんの些細な嗜虐心を煽っていたのだと思う。
 そんな時、決まって彼女は現れる。“あんたたち、やめなさいよ! そんな汚い手でブッキーに触んないで!”
 男の子たちが忌々しそうに悪態をつきながら去ると、紫陽花の陰に身を隠し震えるわたしに、彼女はこう言うのだ。“もう大丈夫よ。ブッキーはあたしが守ってあげる。これからも先も、ずーっと”
 紫陽花の君に差し出された手をおずおずと掴んで立ち上がり、その整ったかんばせを見上げる。繋がれた手と手。わたしの手のひらからはじっとりと汗が滲み、心臓は早鐘を打ち鳴らす。
 わたしを見つめて、はにかむように笑う彼女の眩しさに、初めて気づかされた。わたしの中に芽吹き、新芽のように萌える小さな花が在ることに。
 この花はわたしの中でひっそりと息づいて、やがては大きく成長し、生涯枯れることなく咲き続けていくだろう。たぶん、永遠に。

 裏庭の紫陽花は、青紫の花をつけ、賭けはお流れになった。まったく、あまのじゃくにも程がある。
 紫陽花の君――美希ちゃんもすごく残念そうにしていたから、彼女の願い事の内容が気になって仕方がない。
 親類からの貰い物の、美味しいと評判のケーキと紅茶を誘い文句に、わたしは彼女を呼び出した。“海老で鯛を釣る”を、生まれて初めて実践したのがこの時だった。

 放課後。わたしの部屋で宿題を済ませると、ふたり仲良くケーキと紅茶をお腹に収める。食べるうち、少しずつ空は暗くなり、灰色の雲がどんよりと立ち込めてきた。
 ぱらぱらと降り始めた雨が窓を濡らし出す。その合図のような音をきっかけに、わたしは満を持して尋ねた。

「ねぇ……美希ちゃんの願い事って何だったの?」
「ブッキーのを教えてくれるんなら、教えてあげる」

 む。やはり駄目か。敵の守りは鉄壁だ。そこでわたしは質問を替えた。

「青紫が咲いたんだから、青と言ったひとと、紫と言ったひと、両方が賭けに勝ったことになる。そう思わない?」

 少し間が空いたのち、静かに返された彼女の言葉は、わたしの望み通り、肯定だった。

「――ちょっと狡い気もするけど、確かにそうかも知れないわね」
「だったら! わたしたち、お互いに願い事を叶えなきゃ。わたしに出来ることなら何でもする。だから、教えて? 美希ちゃんの願い事」
「ホントに? ホントに何でもする?」
「わたし、一度した約束は、絶対に絶対に破らないよ」
「神様に誓える?」
「うん、誓うよ。神様にだって何にだって」

 座ったまま、美希ちゃんはわたしにくるっと背中を向けた。まるで、わたしには顔を見せたくないとでも言うように。顔を見せてもらえないまま聴かされた言葉は、小さかった心に残酷に響いた。

「幼馴染みをやめたいの」

 言葉が出なかった。
 オサナナジミヲヤメタイノ。彼女が放ったのは短い言葉の羅列でしかないのに、それらが意図している意味がまるでわからない。
 いや、そうじゃない。意味がわかるからこそ、その言葉を受け取りたくなくて、頭と心とが拒否しているのだ。

「約束よ」
「あっ……でも、それは」
「神様に誓って、絶対に絶対に約束は守るのよね?」
「そ、そうだけど……」
「嘘だったの?」
「嘘じゃない。ホントだよ……だけど美希ちゃん、わたし! わたしの願い事は……」

 いけない。涙があふれる。美希ちゃんの顔がまともに見れない。
 ぽとん。うつむくと、溜まった涙がスカートに落ちて染みを作った。ぽとん。ぽとん。苦しい。哀しみに胸がつかえていっぱいになる。風船みたいにどんどん膨らんで、このまま張り裂けてしまいそう。
 いつの間にか、背中を向けていたはずの美希ちゃんは、向かい合う形でわたしの目の前にいた。

「こうしない? ブッキーとあたしは幼馴染みをやめるの。それでランクアップするの。……こんな風に」

 顎をくいっと持ち上げられ、顔が上向かされる。少しずつ美希ちゃんのくちびるが近づいてきて、頬を伝うわたしの涙にそっと触れた。
 おずおずと涙を拭いながら、両の頬を滑るようにくちづけていく。
 びっくりして動きの固まったわたしのあまりの反応の無さに、始めは遠慮がちだった行為も徐々に大胆になっていき、とうとう最後にはわたしのくちびるに辿り着き、ぴったりと重なり合った。
 どれくらい重なり合っていたのだろう。すごく長かったようにも、とても短かったようにも思える。瞼は自然と閉じて、触れているだけなのに、まるでくちびるの境目が無くなって、美希ちゃんとわたしがひとつの塊になってしまったような不可思議な錯覚。
 やがて、温かさをくれていたそれはゆっくりと離れていく。享受していた体温を失った後に覚えたのは、寂しさと虚無感。

「どう? ファーストキスの感想は」
「んと……少ししょっぱい」

 美希ちゃんは声を立てて笑った。

「あと、寂しい」
「寂しい?」
「美希ちゃんが離れていくのが寂しい。キスが終わる時、行かないでって思ってた」
「そういう時にはね、こう言えばいいの。“もう一度、キスして”って」
「そんなこと……」

 顔が熱い。熱いのは顔だけじゃない。そして、熱いのはわたしだけじゃない。向かい合う彼女の頬やくちびるも、紅く艶めいている。

「恥ずかしい?」
「うん、すっごく……」
「じゃあ言えないか。けどいいの? ブッキーが言わないなら2回目は無しよ」
「やだ、そんなの……」
「じゃあ言って」
「……」
「いい子だから」
「……し、て……」
「よく聞こえないわ」
「美希ちゃん、して、キスして」
「よろしい、可愛くおねだり出来ました」

 彼女を見上げて、御褒美を待ち望む。くちびるは無意識に半開きになり、恥ずかしげもなく甘い甘いくちづけを待ち構えていた。
 美希ちゃんは飴と鞭を使い分ける術を心得ているみたい。くちづけは与えてもらえず、ぎゅうっと強く抱きすくめられる。美希ちゃんの細い腕のなか、わたしはさながらお預けをくらった犬のように呼吸が荒くなる。
 思い描いていたのとはまるで逆だけれど、抱き締められるのも全然厭じゃない。むしろ求められている喜びで胸が震えた。
 至近距離で視線を絡ませ合う。美希ちゃんが近づいてくる。ちゅっ。小気味良い音が何度も弾み、キスの雨が降る。何度も何度もついばまれ、わたしも負けじとついばみ返す。
 触れるだけのキスしか知らなかったわたし達は、お互いを教科書にしながら、たちまちそれ以外の方法も身につけてゆく。
 六年生の初夏。六月の雨の夕暮れ。この日、わたしと美希ちゃんは幼馴染みをやめた。


 ***


 少しだけ澱んだ空気を入れ換えようと、静かに窓を開けたつもりが、からからと思いがけなく大きく響いた。
 さっきまで激しかった雨脚は次第に緩やかになり、こんなふうに窓を開けても、雨は部屋の中には入って来れない。サアサアと降る雨音と心地よい空気だけが侵入し、髪をくすぐりながらわたしの頬を撫でていった。
 窓から裏庭の紫陽花を見下ろす。雨のなか涼しげに佇んでいるさまは、あの時と少しも変わらない。青紫色の花をたくさんつけて、幾年もわたしに寄り添ってくれた花。

「う……ん」

 声が漏れ聞こえ、後ろを振り返る。ベッドのシーツがこんもりと膨らんだ。ころんと丸まるように寝返りをひとつ打つと、シーツの端から膨らみの正体がひょこんと顔を出す。
 ここにもまた、幾年もわたしに寄り添って咲き続ける愛くるしい花の姿があった。
 シーツにくるまり大切な部分はすっぽりと覆われ隠されているが、見えない部分はすっかり頭に入ってしまっている。
 それなのに。彼女の細い肩から白いシーツがするりと滑り落ち、見慣れているはずの鎖骨のくぼみがあらわになると、わたしの動悸はとたんに速くなった。
 ドキドキする胸の高鳴りを誤魔化すように、起こしたことを謝る。

「ゴメン、起こしちゃった? 寒かったよね」
「また勉強?」
「うん。テストも近いしね」
「起きた時、いつもそばにいないのね。つまんない」
「ごめんなさい」

 むくれた姿もまた、たまらなく愛おしい。我が儘な甘えん坊は、起きたばかりのとろんとした流し目で、淫らにねだる。

「もう、祈里が窓開けるから、躰が冷えちゃった。こっちに来てあたためてよ」
「しょうがないなあ」

 “七つ下がりの雨”は、いまや“遣らずの雨”となり、恋人たちを閉じ込める檻になる。
 わたしは笑いながら、ベッドに近づいた。あの頃は抱きすくめられてばかりだったけれど、もう違う。シーツにくるまった“紫陽花の君”をこの腕に閉じ込めて、艶めいたくちびるにそっとキスを落とす。
 彼女の柔らかなくちびるを慈しむように、体温を伝えながら触れるだけのくちづけを与え続ける。
 まるで、あの日にかわした初めてのキスのように。もう二度と戻らない過去を、遠い記憶から呼び覚ますように。
 懐かしくあどけないくちづけに、あの紫陽花の日々が色鮮やかに甦っていき、残像が部屋中を満たす。
 くちびるを名残惜しげに離せば、はにかむ美希ちゃんが、恥ずかしそうにこう言った。

「……もう一度、キスして」




※ キャラクターに誕生日設定を加えていますが、これは独自設定であり、本編上の設定ではありません。
全530は、このお話のR18シーン(閲覧注意)。
最終更新:2014年07月04日 22:10