四葉になるとき ~第3章:癒せ!祈りのハーモニー~ Episode15:星空にあるもの
「うぅ、寒いっ!」
新聞を取りに行ったラブが、そう叫びながらリビングに駆け込む。圭太郎に新聞を手渡し、その足でそろりと台所に侵入。そして、スープをよそっているせつなに後ろから近付くと、その頬を両手で挟んだ。
「うわっ、冷たい!」
せつなが驚きの声を上げる。狙い通りの反応に、ラブは、んふふ~、と得意げに笑った。
「せつなのほっぺた、あったか~い。」
「ちょっと、ラブ!いい加減に手を離してよ。」
両手が塞がっているせつなは、困った顔でラブのされるがままだ。圭太郎は新聞を広げながら、そんな二人の様子を楽しそうに見守っている。
「今朝は特別に寒いなぁ。新聞も、よぉく冷えてるよ。」
「あら、じゃあ今日はみんな、マフラーと手袋、忘れないようにね。ほら、ラブ。ご飯にするわよ。」
あゆみのお陰でやっとラブから解放されたせつなは、ニヤニヤと笑うその顔を軽く睨んでから、食卓に着いた。
「いただきま~す。」
みんな一斉に、スープをひと口。いつもの桃園家の、朝の風景だ。
「何だか急に寒くなったわねぇ。そろそろ冬物のコート、買いに行かなくちゃね、せっちゃん。」
食べながらそう語りかけたあゆみが、しばらくして不思議そうに顔を上げる。いつもなら、すぐに返って来る嬉しそうな声が、一向に聞こえてこないためだ。
テーブルの向こうで、せつなはスープのとろりとした表面を、何だか難しい顔つきで、じっと見つめていた。
「・・・せつな?」
トーストをかじっていたラブも、せつなの様子に気付いて心配そうに声をかける。その声に、せつなはハッとしたように顔を上げた。
「あ・・・ごめんなさい。」
照れ臭そうにラブに微笑んでから、せつながその笑顔をあゆみに向ける。
「お母さん。」
「なぁに?」
「今度、このスープの作り方教えて。凄く美味しい。」
そう言いながら、本当に美味しそうにスープを飲むせつなを見て、あゆみの表情が、フッと緩んだ。
「ええ、お安い御用よ。そうだ、今度はこれにニンジンをたっぷり入れてみましょうか。そしたら、もっと甘みが出るわ。」
「うん、それがいいわ。」
悪戯っぽくウィンクするあゆみに、せつなもクスリと笑って頷く。
「お、お母さん!今の通りのレシピでいいからっ。せつな、今ので十分、じゅ~ぶん美味しいよね?ねっ?」
慌てるラブに、食卓が笑い声に包まれる。
「さぁ、二人とも急ぎなさい。早く食べないと遅刻するわよ。」
あゆみは、クスクスと笑うせつなを愛おしそうに見つめてから、食後の果物を準備しようと、いそいそと台所に向かった。
四つ葉になるとき ~第3章:癒せ!祈りのハーモニー~
Episode15:星空にあるもの
「こらぁ、シフォン!ドーナツで遊んだらあかんて。」
「キュア~!」
四つ葉町公園の石造りのベンチの上を、タルトがシフォンを追って駆け回る。ドーナツを三つ宙に浮かせて車輪のようにコロコロと走らせながら、シフォンは嬉しそうに、自分も文字通り宙返りでその後ろを進んでいた。
「シフォンちゃん、ホントに元気そう。もうすっかり元通りね。」
「うん!今度はのびのびとお散歩が出来るから、またシフォンを連れてどっか行こうよ!」
ペアを組んでストレッチをしている祈里とラブが、華やいだ声で言い合う。これからいつものダンスレッスン。ミユキが来るのを待ちながらの準備運動だ。
「もう。ラブもブッキーも、あんまり気を抜かないでよ。戦いはまだ決着したわけじゃないのよ?」
美希が、隣で黙々と屈伸運動をしているせつなをチラリと見てから、そう言って口を尖らせた。
「わかってるわ、美希ちゃん。でも少なくとも、シフォンちゃんはもうインフィニティになることは無くなったんだし。」
「そうだよ。そのことだけでも喜ばなくっちゃあ。ねっ、せつな。」
「えっ?・・・ええ、そうね。」
弾んだ声で呼びかけたラブが、せつなの歯切れの悪さに、一気に不安そうな顔になる。
「ねぇ、せつな。やっぱり何かあった?今朝から様子がヘンだよ?」
「え?今朝から?」
美希がわずかに眉根を寄せて、小さく呟いた。祈里も胸の前でギュッと手を組み合わせて、せつなの顔を覗き込む。
せつなは、自分を見つめる三人の視線に、少し戸惑ったように目を泳がせてから、今朝と同じ、照れたような笑みを浮かべた。
「ごめん、ちょっと考え事してただけ。本当に何でもないの。」
「ホントに?」
詰め寄るラブと、その後ろでやっぱり不安そうに自分を見つめる美希と祈里。そんな仲間たちの様子に、せつなは苦笑する。
無理もない。つい先日、不幸のゲージを壊そうと単身敵地に乗り込んで、大いに心配をかけたばかりだ。みんながせつなの様子に敏感に反応するのは、当然のことだろう。
(でも・・・。)
胸の中に抱えている疑問と不安を、このままみんなに伝えても良いものか。無邪気にはしゃぐシフォンと、その様子を心から喜んでいるラブたちを見ると、今の何も分からない段階で、それを口に出すことはためらわれた。
「ええ。この前のことは、反省してるわ。もうあんな無茶はしないから、心配しないで。」
三人の目を交互に見つめて、静かに言葉を発する。
「ホントだね?」
「本当よ。」
しっかりと頷いたせつなに、ラブがやっと笑顔になったとき、公園の入り口に、ミユキが姿を現した。
「みんな~、準備はいい?じゃあ今日のレッスン、始めるわよっ!」
「はいっ。よろしくお願いします!」
四人の引き締まった声に続いて、ダンシング・ポッドから、いつもの軽快な音楽が流れ始めた。
☆
その翌日、学校から帰るや否や、せつなはラブの部屋のドアをノックした。
「タルト、居るの?入るわよ。」
押し殺した声でそう言って、ドアを開ける。部屋の中には、バツの悪そうな顔でこちらを窺うタルトと、その手元を興味深げに覗き込んでいるシフォンの姿があった。どうやらタルトは、久しぶりにゲームに興じていたらしい。
せつなは、そんなタルトの様子にはお構いなしに、後ろ手にドアを閉めると、タルトの前にきちんと正座した。
「タルト、お願いがあるんだけど。」
「どっ、どないしたんや?パッションはん。」
せつなの真剣な態度と表情に気圧されたように、タルトが及び腰で答える。が、せつなの次の言葉を聞いて、その表情は、せつなに負けず劣らず真剣なものに変わった。
「私、スウィーツ王国の長老さんに会って、どうしても訊きたいことがあるの。訊いたらすぐに帰るから、シフォンと一緒に来てくれないかしら。」
「それは、ピーチはんたちに黙って、っちゅうことかいな。」
いつになく厳しいタルトの声。やはり彼の反応も、以前とは違って見える。
「ラブが帰るまでには、ちゃんと戻るわ。今日は補習だって言ってたから、もうしばらく帰って来ないの。念のため、三人でちょっと出かけるってメモを残しておいても・・・」
「せやったらもう少し待って、ピーチはんと一緒に行ったらええやないか。」
咎めるようなタルトの視線から、せつなはそっと目を逸らす。タルトが渋るのは、予想していたことだった。だから本当は一人で行きたかったのだが、この前のことがあったばかりだ。タルトとシフォンが一緒なら、万が一出かけたことがラブたちに知れても、それほど心配されないだろう。
それに、ラビリンスの次の出方が分からない今、シフォンの周りにプリキュアが誰も居ない時間は、出来る限り作りたくなかった。今日は放課後、美希がモデルの仕事、祈里が病院のお手伝いで、二人には頼れない状況なのだ。
せつなは少し考えてから、再び真剣な眼差しでタルトを見つめた。
「あのね、タルト。私には、シフォンが本当にもう二度とインフィニティにならないのか、よく分からないの。」
「それは・・・」
何と言っていいか分からない様子のタルトを前に、せつなは少し俯き加減になる。
「不幸のゲージが満タンになれば、インフィニティが現れる――メビウスから確かにそう聞いていたわ。でも、前に長老さんが言っていた言葉を思い出すとね。不幸のゲージだけが、シフォンがインフィニティになるきっかけじゃ無いんじゃないかって、そんな気もするの。」
無限メモリー・インフィニティこそが、シフォンのもうひとつの姿――ティラミス長老は、確かにそう言っていた。ということは、不幸のゲージを壊したからと言って、その事実に変わりは無いのではないか。
勿論、インフィニティになるきっかけを取り除いたのだから、これは大きな進歩だ。しかし、ラビリンスも知らない、インフィニティを発動させるきっかけが他にも存在するとしたら。今のシフォンの幸せは、みんなの喜びは、束の間のものだということになりはしないのか。
そもそもシフォンにとって、インフィニティとはどういう存在なのだろうか――せつながここ数日考え続けている、二つの大きな疑問のうちのひとつが、これだった。
もうひとつは、言うなれば当然の心配事だ。不幸のゲージを失い、インフィニティ発動のすべを失ったラビリンスが、この後どう仕掛けてくるのか、ということ。最近は、四つ葉町でウエスターやサウラーを見かけることすらほとんどない。かと言って、一度発せられた命令が取り下げられることなど、ラビリンスではあり得ない。それだけに、この静けさは不気味と言って良かった。
勿論、長老に会ってもこの二つめの疑問と不安は何も解消されない。それでも、インフィニティについては、もしかしたらもっと詳しい情報が聞けるかもしれないと、せつなは思っていた。
「そないな大事なことやったら、なおさらピーチはんたちに・・・」
「・・・言えないわよ。」
「え?」
「みんな、シフォンが元に戻って、あんなに喜んでいるんだもの。こんな不確かなことで、みんなに余計な心配、させたくはないわ。それに、結局何も分からないかもしれないし。」
「そやかて・・・」
なおも言い募ろうとするタルトに、せつなは正座したまま、深々と頭を下げる。
「お願い!何か分かったら、みんなにはちゃんと伝えるわ。たとえシフォンがこれからもインフィニティになるかもしれないって分かっても、今度は隠さないでちゃんと伝えるから。」
「うーん・・・。」
とうとうタルトは、根負けしたように頷いた。
「ほな、せっかくやから、長老へのお土産にドーナツ買うてくるわ。五分・・・いや、十分で戻ってくるさかい、ちょっと待っとってや。」
決意の眼差しで立ち上がったかと思うと、そう言って駆け出していくタルトを、せつなは苦笑いで見送る。
(何だかんだ言っても、タルトも呑気ね・・・。)
大きな前進の後に訪れた、束の間の平穏な時――だからこそ、怖いのだ。
しかし、それから十分と少し経った頃、せつなは、呑気なのは実は自分の方だったと思い知らされることになった。
階段をバタバタと駆け上がってくる、タルトより遥かに大きな足音が聞こえてきたからだ。
「せつなっ!」
部屋のドアをバタンと開けて飛び込んできたのは、肩で息をしているラブだった。どうやら学校から走って帰って来たらしい。
「ラブ、今日は補習だったんじゃ・・・」
「せつなのことが心配で、超特急で終わらせたらさ、校門を出たところでタルトにばったり会って。
もう!シフォンのことを訊きに行くなら、あたしも行くよ!あたしだって、シフォンが心配なんだよ?」
両手を腰に当てて、ラブはせつなの顔を覗き込む。その強い光を宿した眼差しから、せつなは目をそらし、視線を落とした。
「だって、長老さんに訊いても何も分からないかもしれないし、それに・・・」
「もしまだインフィニティになるかもって言われたら、あたしたちが心配すると思ったんでしょ?
心配してもいいの!心配するのも、安心するのも、何も分からなくてガッカリするのも、四人一緒の方がいいじゃん。ね?」
「え?四人って・・・」
思わず顔を上げたせつなの耳に、階下から、また新たな足音が聞こえてくる。
「もう、ラブ!現場にいるときは、電話じゃなくてメールにしてって言ってるでしょ?」
「遅くなってごめんね、ラブちゃん。せつなちゃん、まだ居るよね?」
開けっ放しのドアから顔を覗かせたのは、ラブと同じように息を切らせた美希と祈里だった。
「二人とも・・・どうして?」
驚くせつなに、二人はちらりと顔を見合わせる。
「ラブちゃんから電話を貰ってね。だから、お父さんに頼んで抜けてきちゃった。わたしもシフォンちゃんのこと、気になるもの。」
「アタシは、今日は完璧だったから撮影が早く終わったの。大体、一人で長老に話を聞いてこようなんて、ズルいわよ?せつな。」
あっけにとられて二人を見つめるせつなの肩を、ラブが満面の笑みで、ぽんと叩く。そのとき、ドアのそばに立っている祈里の陰に隠れるようにして、タルトがそろりと部屋に入って来た。
「パッションはん、すんまへん。ピーチはんに見つかってもうた。お蔭でドーナツ、買いに行かれへんかったわ。」
「タルトったら・・・。カオルちゃんのお店と学校とは、反対方向じゃない。」
せつながそう言いながら、ひょいとタルトを抱き上げる。
「あわわ・・・バレてますのん?」
慌てるタルトをじっと見つめてから、せつなはニコリと笑った。
「私の負けね。タルト、ありがとう。」
☆
それから三十分ほど後。
桃園家の二階の一室が、再び赤い光に包まれる。クローバーの四人とタルトとシフォンが、スウィーツ王国からせつなの部屋へと戻ってきた。
「結局、これと言って目新しい情報は無かったわね。」
美希が大袈裟にため息をついてから、笑顔で仲間たちを見まわす。ラブも祈里も、そしてせつなも、何だかサバサバとした顔つきで、頷き合った。
「そないなこと訊かれても、ワシにも分からん。」
全員を部屋に招き入れ、紅茶をご馳走しながら長老が言った一言は、せつなが密かに恐れていた言葉だった。
「ワシが知っとるんは、シフォンのもうひとつの姿がインフィニティや、っちゅうことと、それが覚醒したきっかけが不幸のゲージやったこと。王家の予言の書に書かれた言葉。それから、今目の前にいるシフォン。それだけや。」
長老は、相変わらず飄々とした口調でそう言って、紅茶をズズッと啜る。ひょっとして、それだけで追い返されるのかと皆が思ったとき、タルトがテーブルの上に身を乗り出した。
「なんやぁ!それだけやったら、ワイらとちーっとも変わらんやないかい!」
ストレートに食ってかかるタルトに、珍しく長老の声が大きくなる。
「当たり前やがな。あんさんらには、もう全てを明かしとるんやで。人が苦労して調べたもんを、それだけとはなんや!」
「そない言うてもやな~!」
タルトが思わず椅子の上に立ち上がりそうになったとき。
「けんか、ダ~メ~!」
今まで部屋の中を我が物顔に飛び回っていたシフォンが、泣きそうな顔で飛んできた。テーブルの真ん中にぺたんとお尻を付けて座ると、長老とタルトを、目をウルウルさせて見比べる。
それを見て、長老は吊り上がっていた太い眉毛をカタッと下げると、シフォンを抱きかかえた。
「おお、シフォン、悪かったのぉ。大丈夫や、ワシらは喧嘩しとるわけやないでぇ。これはな、単なるコミュニケーションや。な、タルト。」
「こみみけーしょ?」
シフォンがまだ不安げに、キュア~?と首をかしげる。
「そ・・・そや。喧嘩やない。」
仕方なく、渋々頷くタルト。それを見て、シフォンがやっと笑顔になった。
「それにしても、喧嘩なんてよぉ知っとったのぉ、シフォン。ひょっとして、お嬢さんたちのコミュニケーションも、目撃したことがあるんかのぉ。」
長老の言葉に、四人は苦笑いをしながら、横目でチラチラとお互いの顔を窺う。長老は、そんな彼女たちにニヤリと笑いかけてから、真面目くさった顔で、こう言ったのだった。
「なぁ、お嬢さんがた。ガッカリさせてすまなんだが、インフィニティの謎は手ごわい。今はこれが精一杯や。けどな、これだけは自信を持って言えるで。
シフォンは決して、災いなんかやない。ワシらの宝や。毎日いろんなものを見聞きして、喜びや悲しみを思う存分経験して、それをぐんぐん吸収しながら育っとる、大事な宝や。
せやから、その笑顔を何としてでも守る。それぞれが、それぞれの方法でな。ワシらに出来るんは、それだけやと思うんや。」
「確かに、今すぐに安心できるような話は何ひとつ聞けなかったけど・・・でもわたし、なんか勇気が湧いちゃった。」
祈里がそう言って、両手の指を組み合わせる。
「そうね。アタシたちは今まで通り、シフォンを全力で愛して、全力で守るだけよね。」
美希がそれに答えて、パチリと片目をつぶる。
「あ、そっか!」
ラブが突然、パンと手を叩いた。
「ねえ。占い館でノーザの霧に飲み込まれたとき、あたしたち、シフォンの声のお蔭で助かったじゃない?
シフォンは前にあたしたちが口喧嘩してるところを見てたからさ。それで、あたしたちがお互いに戦っていることに、気付いたんじゃないかな。」
「あ・・・だからタルトちゃんと一緒に、飛び込んできてくれたのね!」
祈里が、腕の中にいるタルトの顔を覗き込む。
「なるほど。じゃあアタシたちの喧嘩も、無駄じゃなかったってことね、せつな。」
「ちょっと、美希。なんで私だけに向かってそれを言うのよ。」
せつなは美希にむくれてみせてから、フッと小さく笑った。
「でも・・・そうね。私も、少し分かった気がする。幸せって、楽しいことだけで出来ているわけじゃないのね。もしかしたらどんな経験にも、無駄なことって、ひとつも無いのかもしれない。」
最後は自分に言い聞かせるように呟くせつなを、ラブ、美希、祈里が静かに見つめる。その視線に気付いて、せつなも少し上気した顔を上げた。
四人の視線はゆっくりと絡まって、やがてそれぞれの、柔らかな笑みとなった。
☆
その夜、せつなはベランダに出て、空を眺めていた。
目が慣れてくると、実に多くの星たちが夜空を彩っているのが分かる。
故郷のラビリンスでは、決して見ることのなかった小さな光――。
(空が暗いから、小さな星の光でも、こんなにはっきりと見えるのね。)
冷たくなった両手に、はぁ~っと息を吹きかけると、白いもやがあっけなく闇の中に消える。
ふいに、昨日のラブの悪戯を思い出して、頬に両手を押し当ててみた。その途端、隣の部屋のガラス戸がカラリと開いて、せつなは思わず両手を背中に回した。
「何してるの~?せつな。」
「べ、別に。」
(私ったら、まるで悪いことでもしてたみたいじゃない・・・。)
恥ずかしさに、せつなの頬が赤くなる。が、辺りの暗さが幸いしたのか、ラブはそれには気付かない様子で、せつなの姿を嬉しそうに眺めた。
「寒いから、あたしも何か上に着て来ようっと。」
ラブが歌うようにそう言って、部屋の中に引っ込む。それを見届けてから、せつなはそっと胸に手をやって、柔らかいコートの感触を確かめた。
真っ白なファーが付いた、ベージュ色のダッフルコート。あゆみが若い頃に着ていたものだという。
「これ、もう私にはデザインが若すぎるから、せっちゃん、もし良かったら着てくれないかしら。」
夕ご飯の後に、あゆみがそう言って、せつなにコートを試着させてくれたのだ。ぴったりね、と微笑むあゆみに、せつなは震える声で、ありがとう、と言うのがやっとだった。
「やっぱりこれくらい着ておけば、外に出ても寒くないねっ。」
ピンク色の厚めのパーカーを着て、再びベランダに出てきたラブが、嬉しそうにせつなの隣に立つ。
「ええ、凄くあったかい・・・。外がこんなに寒いから、あったかいのが嬉しく思えるのよね。」
せつなは、ラブにニコリと笑いかけてから、もう一度、小さな空の光に目をやった。
「私ね、ラブ。さっき、長老さんに言われて気付いたの。
この町に来て、毎日が凄くあったかくて、楽しくて・・・こういう経験が幸せって言うんだって、そう思ってた。でも、辛かったり、悲しかったり、誰かと喧嘩したり、怖いものに怯えたり・・・そういうこともまた、幸せに繋がる大切な経験なのね。」
暗い夜空に、仲間たちの顔が次々と浮かぶ。
おもちゃの国で、ウサピョンを捨てたと自分を責めて、立ち尽くしていたラブ。
失敗の言い訳を一切しないで、懸命にクローバーボックスを探していた美希。
戦いのとき、自分が足を引っ張るのが怖いと、俯きながら告白した祈里。
自分の弱さや失敗や悩みを乗り越えようと、精一杯頑張る姿が愛おしくて、心配でたまらなくなったり、少しでも応援したくて駆け回ったり。自分もそんな風に思いながら、仲間たちの中に居られるのが、この町で知った、せつなの幸せのひとつだ。
以前、美希の怖いものを聞いたとき、それを知って嬉しいと思った自分は意地が悪いのか、悩んで美希に尋ねたことを思い出す。
今なら、あのときの嬉しさの理由が、少し分かるような気がした。あのとき自分は、美希に、弱いところも見せられる仲間として、信頼して貰える喜びを知ったんだろう。
もしもみんなが、いつも強くて完璧で揺るぎない存在だったら、決して味わうことの出来ない気持ちだったに違いない。
そして自分のことも、仲間たちは当たり前のように心配してくれる。それはやっぱり、心苦しいことだと思う。
でもあのとき――暗く冷たい不幸のゲージの前で、一人じゃない、とみんなが言ってくれたとき、こんな私でも、みんなの大切な仲間なんだと、そう感じた。私もみんなの力を借りて立ち上がっていいんだと、そう思えた。
「ねぇ、ラブ。」
せつなが、ちょっと悪戯っぽい目でラブの顔を見てから、両手の人差し指を、二十センチくらい離してベランダの手摺に載せた。
「前に、カオルちゃんに出題されたクイズなんだけどね。」
「カオルちゃんに?」
訝しがるラブに笑顔で頷いて、せつなは左手の人差し指で手摺を軽く叩く。
「こっちが最悪の状態で、こっちが最高の状態。誰もがみんな、この間のどこかにいるとしてね。こっちの、最悪の怖さにばっかり目が行くのが、『心配』なんですって。」
「ああ・・・何となく、分かる・・・かな?」
辛うじて頷くラブに、せつなは今度は右手の人差し指で手摺を叩いて見せる。
「それで、ここからが問題なんだけど。じゃあ、こっちの最高にばっかり・・・時には、最高のもっと向こうにまで目が行くのって、何だと思う?」
「うーん・・・それ、難しすぎるよぉ、せつな。」
あまりにもあっさりと降参するラブに、せつなが呆れた顔になる。
「ちょっと、ラブ。少しは考えたの?」
「う、うん。考えるにはぁ、考えたよ。でもさ、やっぱり最悪か最高か、どっちかばっかりを見るって、難しいよぉ。」
「・・・え?」
ポカンとするせつなの手に、ラブが自分の手を重ねる。そして、エイッ、と子供じみた気合いを入れて、その手を手摺から外した。そのまま両手で、せつなの両手を包み込む。
「だって、昨日は最悪でも、今日は最高になったりするじゃん。だから、最悪でも、最高でもさ。せつなはせつなだし、あたしはあたしだよ。美希たんもブッキーも、タルトもシフォンも、みーんな。ねっ?そう思わない?」
あっけにとられていたせつなが、クスリと笑う。
「えっ?あたし、なんか変なこと言った?」
「ううん。やっぱり、今日は私の負けみたい。」
怪訝そうに首を傾げるラブに、少し目を潤ませて微笑んでから、せつなは三度、空に目を向ける。
星空にあるものは、空だけでも、星だけでもなかった。濃紺の闇と、小さな光のコントラスト。その無限の広がりが、この町の幸せを静かに祈ってくれていると、せつなは今、確かに信じた。
~終~
最終更新:2013年05月10日 00:24