四つ葉になるとき ~第2章:響け!希望のリズム~ Episode9:四つ葉町、15時16分発




四色に塗り分けられた、四つ葉のクローバーの留め金。
それを外してパカリと蓋を開け、ゆっくりとハンドルを回す。
中央のクリスタルが柔らかな光を放ち、四つのハートがくるくると動き始める。
そして滑るように紡ぎ出される、軽やかで優しい旋律。


「いい音色だよねぇ。曲も素敵だし。」
ラブが後ろから覗き込んで、嬉しそうに言う。
「あ・・・う、うん。」
少し恥ずかしくなって、ラブの顔を見ずに頷いた。
こうやってこの音色に聴き入るのは、今日だけでもう何度目だろう――そう思ったから。


私にとって「音」というものは、耳で捉えることのできる、単なる情報でしかなかった。
言葉としての情報。状況を把握するための情報。危険を察知するための情報。
音を聴くために、音を聞くなんて――音の響きや連なりを、ただ楽しむなんて、
そんなこと、この世界に来て初めて知った。
もっとも、私が最初に知った音楽はダンスの曲だったから、
はじめはメロディよりも、リズムやテンポばかりを気にして聴いていたような気がする。


初めてクローバーボックスの音色を聞いた、あのときの不思議な気持ち。
豊かで澄み切った音は、まるで耳なんか通さずに、
直接心に流れ込んでくるみたいだった。
音は私の中で奏でられ、あたたかく語りかけるようにメロディを紡ぐ。
それに答えて、何だか私の心も一緒に歌っているような、そんな気がした。


「音楽って、音を楽しむものだからさ。
きれいな音楽を聴くと、一緒に歌っちゃうものなんだよ。」
あのときの気持ちを伝えたくて、下手な説明をした私に、ラブが言った。
もしそうなら、私の心も――音楽なんて、まるで知らなかった私の心も、
このオルゴールの曲に乗せて、歌うことが出来るんだろうか。
休み時間の教室の楽しい雰囲気や、晩ご飯の食卓の明るさや、
今、私の隣りにある、笑顔のあたたかさを。


ふわりとやって来たシフォンが、オルゴールの曲に合わせるように、
いつもより優しい声で、キュアキュア~と囁く。
クローバーボックスと、シフォンと、私の心。
何だか三つの心が、歌で楽しく語り合っているように思えて、
私はハンドルを回しながら、知らず知らずのうちに、微笑んでいた。




   四つ葉になるとき ~第2章:響け!希望のリズム~
   Episode9:四つ葉町、15時16分発




「せつな~、お待たせ。」
 クローバータウンストリートの、天使の像の前。五日前と同じ場所に、同じように立っている彼女に、美希は駆け寄る。
「私も、今来たとこ。」
 そう言って、少しはにかんだように笑うせつなに、美希もニコリと微笑んだ。
 この前と違っているのは、二人とも制服姿だということと、時間が既に午後三時過ぎだということ、それに、二人のこの表情だ。
 あのとき結局買えなかった美希の服を買うために、美希とせつなは、今度は最初から二人きりで、学校帰りに待ち合わせたのだった。


 商店街を歩く二人の足取りも、今日は軽やかだ。そしてこの前よりも時間が無いだけに、歩調が速い。
「少し急げば、四時にはお店に着けるかしら。」
「この時間なら電車の本数も多いし、大丈夫よ。」
 そう言って、美希はちらりと隣を見て、内心あれ?と首をかしげた。何だかいつもより、ヤケにせつなの背が高いような気がしたからだ。
 せつな、今日は学校の革靴よね・・・不思議に思って、そっと足元に目をやる。途端に驚きの表情で顔を上げた美希は、せつなの頭の向こうに何があるかに気付いて、今度は思わず、ぷっと吹き出した。
 百面相さながらのその表情に、気付いているのかいないのか、せつなは澄まして前を向いたままだ。
 美希は、そんなせつなを見つめてニヤリと笑うと、さっと彼女の後ろにまわって、その両肩を上から、くいっと押さえ付けた。
「な・・・なに?」
「そ~んな爪先立ちで歩いてたら、足痛めるわよ?身長だけは、アタシと張り合おうったって、ム・リ・ム・リ。」
「そんなこと・・・。」
 せつなが少し悔しそうに、口を尖らせる。が、肩越しに囁いた美希の言葉に、見る見るその顔が赤くなった。
「ありがとう。もう大丈夫よ、魚屋さんの前は通り過ぎたから。」


 この前二人でここを通ったとき、店先の水槽の中にアレを見つけて、思わず、ひっ!と声を上げてしまったことを思い出す。せつなはそれを覚えていて、美希の視界に水槽が入らないように、盾になってくれたのだろう。
 それも、身長が足りない分を精一杯背伸びして、爪先歩きでカバーするという、単純だけど誰にも真似の出来ない方法で。
 やり方は強引だけど、それがいかにもせつならしい・・・そう思って、美希はしみじみと嬉しくなる。


 美希の手の下にある肩の高さが、ガクンと下がった。靴の踵をそっと地面につけたせつなが、はぁっと溜息をついて、美希を振り向く。その何とも照れ臭そうな表情に、もう一度ニヤリと笑みを返して、美希はせつなの手を取った。
「急ごう。せつな、走れる?足が痛いなんて、言わないわよね。」
「当然でしょ!」
 クスリと笑い合って、駅を目指して走り出す。少し秋めいてきた風が、手を繋いで走る二人の髪を、柔らかく揺らした。




 まだラッシュアワーには間があるが、平日の午後だけあって、電車はそこそこに混んでいた。二人並んで、つり革につかまる。
 目の前の座席には、大学生らしき若者が座っていて、イヤフォンで音楽を聴きながら、雑誌のページをめくっている。それをちらりと眺めてから、美希はせつなの耳元に口を寄せた。
「せつなにあんなに心配されるんじゃあ、アタシもそろそろ、克服しなきゃダメかしら。」
「何を?」
 こちらを見上げて問い返すせつなに、一瞬グッと詰まってから、美希はさらに声をひそめる。
「もうっ!わざわざ言わせなくてもいいでしょう?」
「名前も口に出せないものを、克服なんて無理ね。」
 クスクスと笑ってから、せつなは少し真顔になった。


「ねぇ、美希。怖いものって、やっぱり克服しなきゃいけないのかしら。」
「そりゃあ、モノにも拠ると思うけど・・・。」
 せつなが告白した“一番怖いもの”を思い出して、美希は口ごもる。
「ごめんなさい、おかしなことを言って。怖いものは、有るよりは無い方がいいわよね。でも・・・。」
 せつなは美希の顔から目を逸らし、少し言いづらそうに言葉を続けた。
「私、美希にも怖いものがあるって知って、ちょっと嬉しかったの。それを美希が教えてくれたのが、もっと嬉しかった。」
 そう言って、せつなの顔が下を向く。
「そんな風に思うのって、やっぱり私・・・意地が悪いのかしら。」
「ちょっ、それは・・・」


 美希が口を開きかけたとき、電車がホームに滑り込んだ。大学生の隣の席に座っていた、サラリーマンらしい二人連れが席を立つ。
「・・・座ろっか。」
 美希が気を取り直したように、せつなを促す。そして、二人並んで座席に腰掛けると、さっきよりも一層近くなった横顔に向かって、おどけた調子で囁いた。
「もしそうなら、アタシもせつなに負けないくらい、意地が悪いってことになるわね。」
「え・・・?」
 驚いたようにこちらを向くせつなに、美希はパチリと片目をつぶる。
「それに、ホントに意地が悪い相手に、アタシが弱みを見せるわけないでしょう?だってアタシ、完璧だもの。」
「美希ったら。」
 せつなが少しうるんだ目でそう言ったと同時に、電車がガタンと大きく揺れて発車する。美希は思い切りバランスを崩して、せつなの肩にもたれかかった。
「ゴメン。完璧・・・じゃないわね。」
「クスッ。ううん、頼りにしてもらえて、嬉しいわ。」
 せつなが珍しく、ニヤリといたずらっぽく笑う。そして、わずかに揺らいだ上体を元に戻すと、反対隣の席に向かって律儀に会釈した。そのとき、隣の彼が読んでいる雑誌が目に入って、せつなは、あ・・・と小さく声を上げた。


「ねぇ、美希。今までに、楽器の演奏を習ったことって、ある?」
「え?楽器?うーん、学校の音楽の授業で、リコーダーを吹いたくらいかな。ラブもブッキーも、そう変わらないと思うけど。それがどうかしたの?」
 せつなの唐突とも言える問いに答えながら、美希はせつなの隣で広げられている、雑誌のページにちらりと目をやる。なるほど、どうやら音楽雑誌らしい。誌面を大きく飾っているのは、最近ニューヨークで話題になっているジャズピアニストが演奏している写真だ。
 せつなは少し考えてから、おずおずと口を開く。
「お店に着く間に、少し聞いてほしいことがあるんだけど・・・いいかしら。」
 そう言って、少し上目遣いに自分を見つめるせつなに、美希はここぞとばかりに、ニコリと完璧な笑顔を見せた。
「もっちろん、いいわよ。何でも言って。」
 途端に身体ごとせつなに向き直られて、ほんの少したじろぐ。せつなはそんな美希にはお構いなしに、考え考え、ゆっくりと話し始めた。
「あのね。昨日の放課後のことなんだけど・・・」


 ☆


 昨日――この日はせつなにとって、初めての日直の日だった。
 四つ葉中学校では、日直は二人一組で担当する。授業が終わるたびに黒板を消したり、移動教室のときに窓とドアを閉めて電気を消したり、ひとつひとつは取るに足りないことだが、細かい仕事が朝から放課後まで続く当番。そもそも、「日直」という言葉を初めて聞いたせつなには、戸惑うこともさぞかし多いだろうと思いきや・・・。


「せつなっ!日直のことなら、どーんと任せて!まずねー、朝、先生が入って来たら、『起立!』って号令かけて・・・」
「違うわよ、ラブ。その前に、職員室に学級日誌を取りに行くんでしょう?東さん、わからないことがあったら、ラブじゃなくてわたしに、何でも訊いて。」
「東さん!チョークの粉で指が汚れないように、黒板消しは、僕が責任を持って掃除しておきますから!」
「いーえ、東さん。何だったら、明日は板書は無しってことで、僕が先生に掛け合いましょう!」
「・・・お前ら、いい加減にしろよ。東さんと日直をやるのは、俺だぞ!」
「それが一番、許せないんだぁぁぁ!!」


 既に前日の時点で、ラブを筆頭に、次から次へとせつなの世話を焼きたがる級友たちが現れて、一緒に日直をやる男子生徒もたじたじ、というありさま。お陰で当日は、さして大変でもない日直の仕事よりも、そんな周囲の反応の方に大いに戸惑いを覚えつつ、せつなの初めての日直の日は、何だかワイワイと過ぎて行った。


 そして、日直の最後の仕事である学級日誌を書き終えて、職員室へ届けに行った、その後のこと。
 教室に鞄を取りに戻ったせつなは、人がまばらになった廊下を流れてくる音に気付いて、足を止めた。コロコロと軽快に転がるような、澄んだ音色。音楽の授業で、何度か聞いたことのある音だ。
(あれはピアノの音ね。きれい・・・。誰が弾いているのかしら。)


 一緒に日誌を届けに行った日直の相棒と教室の前で別れ、音を頼りに歩き出す。辿り着いた先は予想通り、音楽室だった。半開きのドアの陰からそっと窺うと、ピアノの向こうに見える真剣な表情。弾いていたのは、せつなのクラスメイトの由美だった。ラブと仲良しで、まだ学校に慣れていないせつなを、いつもさりげなくフォローしてくれる子だ。
 漆黒の髪を柔らかく揺らして曲のリズムを取りながら、右手ではゆったりと流れるようなメロディを、左手では軽快で正確無比な和音を奏でる。演奏のテクニックについてはわからないせつなにも、その両手から紡ぎ出される音の豊かさは、その耳で確かに感じることができた。


 やがて曲が終わり、由美が楽譜から目を上げる。そして、ドアの陰のせつなに気付くと、嬉しそうな、困っているような、何とも複雑な表情になった。
 せつなの方も、照れ笑いの表情で音楽室に入り、由美に近付く。
「ごめんなさい。教室の前でピアノが聞こえて、あんまりきれいだったから。」
「あ、ありがとう、東さん。教室まで聞こえてたんだ・・・。ドアが開いていたもんね。」
 由美が赤い顔をして、ドギマギと言った。
「今度、地域の音楽祭で、合唱部が歌うことになっていてね。その伴奏を頼まれたの。いつもピアノを弾いていた子が、お父さんの転勤で、急に転校しちゃったものだから。」
「そうだったの。こんな素敵な伴奏なら、きっと合唱もうまくいくわね。」
 せつながそう言って、ニコリと笑う。が、当の由美は、それを聞いて視線を泳がせると、ピアノの鍵盤に目を落とした。


「うまく・・・いかないの。わたし、どうしてもみんなの足を引っ張っちゃって。」
「どして?あんなにきれいに演奏してたじゃない。」
 驚いて目を見張るせつなに、由美は顔を上げて、真剣な眼差しを向けた。
「東さん、お願い。今度は、そこで最初から聴いていてくれる?」
 せつなが頷くと、由美はおもむろに手拍子を始めた。
「このテンポで、手拍子をしながら聴いてほしいんだけど。」
「わかったわ。このテンポね?」
 せつなが由美と入れ替わりに手拍子を始める。由美は目を閉じて、その音に耳を澄ませてから、静かに鍵盤に指を乗せた。


 由美の右手が流れるようなメロディを奏で、左手の指が三つの鍵盤で和音を作りだす。
 曲が始まると、せつなの手拍子が、自然と四拍子になった。身体の動きを音楽の流れに合わせる――ダンスレッスンで、いつもやっていることだ。
(でも、何だかさっきとは違う。何だろう。)
 手拍子をしながら、せつなは目をつぶって、じっと音に神経を集中する。
(さっきよりも、音が――硬い?)
 パッと目を開いて、ピアノの前の由美を見た。その顔は、さっきよりさらに真剣そのものに見えたが、メロディに乗っているような表情ではない。リズムを取っていた黒髪も、今は指の動きを見張っているように、左右に動いているだけだ。
 やがて、曲がガラリと雰囲気を変え、左手がトリルの連打となる。その部分で、由美のテンポがせつなの手拍子と明らかにずれ、修正しようとした途端、音が飛んだ。
 由美の表情が、さらに険しいものとなる。何とか止まらずに最後まで演奏できたものの、そこからの音はさらに硬く、メロディもリズミカルではなくなっていた。


「ごめんなさい、東さん。わたし、歌が入るとどうしても緊張してしまって・・・。だから合唱部のみんなとも、別々に練習してるの。手拍子だけなら、何とかなるかと思ったんだけどな。」
 由美が、力なく肩を落とす。
「本番は一回きりだから、もしも大きな失敗でもしたら、って考えたら怖くって・・・。もう、あと十日しか無いのに。」
 独り言のように呟く由美に、せつなは何も言えず、ただ、楽譜と鍵盤とを、じっと見つめるだけだった――。


 ☆


「それで?せつなは、どうしたいの?」
 美希が、話を終えたせつなの顔を覗き込む。
「由美の役に立てることがあるなら、役に立ちたいんだけど・・・。」
 せつなはそう言って、膝に置かれた自分の手を見つめた。


 失敗が許されない状況――それは、せつなにとっては嫌と言うほど経験がある状況だ。そして、そういう時にこそ平常心が大切だということも、身に沁みて知っている。
 平常心を保つためには、毎日の訓練を地道に積み上げて、常に平常心で居られるだけの自信を付けるしかない。逆に言えば、毎日の訓練を通して自分の力を正確に把握し、あらゆる事態を想定して対策が立てられれば、緊張して動けなくなるようなことはない――それが、せつなが経験から導き出した結論だった。


「そこまで判っているなら、その子にそう言ってあげればいいじゃない。勿論、練習は必死でやっているんだろうけど、こういうことって精神的な部分が大きいもの。誰かにアドバイスしてもらえれば、違ってくると思うよ?」
「でも・・・。」
 美希の言葉に、せつなはちらりと顔を上げ、また膝の上に視線を落とす。
「私がそう思うようになったのは、ピアノや合唱とは程遠い経験を通してだもの。そんな経験と、同じに考えて良いワケが・・・」
「何言ってるの。同じよ。」


 確信に満ちた力強い声が、せつなの顔を上げさせる。そこには、あのときウエスターに真っ向から啖呵を切ったときと同じ、強い光を湛えた美希の眼差しがあった。
「せつなの話を聞いて、モデルの仕事も同じだなって思ったもの。人前に立つのって、やっぱり怖いのよ?だから、毎日の努力の積み重ねが大事なの。そうでなければ、とてもじゃないけどモデルなんてやれないわ。」
 小声ながらもきっぱりとそう言い切ってから、美希はせつなの目を見つめて、ゆっくりと、優しい声で言った。


「どんな経験にもさ。いろんなことに通じる大切なモノって、何かしらあるのよ、きっと。ううん、辛かったり寂しかったりした経験からこそ、そういうモノを掴んでやらなくちゃ。だってその時間も、アタシたちの大事な人生なんだもん。」


 あっけにとられたように蒼い瞳を見つめていたせつなが、ゆっくりと、口元に小さな笑みを浮かべる。それを確かめてから、美希は内緒話でもするように、せつなの耳に顔を近付けた。
「もうひとつ、人前で緊張しない、とっておきの方法があるわ。そこに居る人たち全員が、自分のファンだ、って想像すればいいのよ。」
「ファン?」
 不思議そうに小首を傾げるせつなに、美希は必死で言葉を探す。
「えーっと・・・みんながみんな、自分のことを大好きな人たちだって、想像するの。合唱部の仲間たちも、顧問の先生も、見に来てくれたお客さんも、み~んな、ね。大好きだって思ってくれる人たちの前なら怖くないし、一緒に音楽を楽しもうって思えるでしょう?」


 せつながハッとしたように、美希の顔を見つめた。
「・・・そうね。音楽って、まずは楽しむものよね。ありがとう。大事なことを、忘れるところだった。」
 美希はニコリと笑ってから、チロリと小さく舌を出す。
「まぁ、ホントのこと言うと、今のはママの受け売りなんだけどね。」
「さすが、元アイドルね。でも・・・。」
 感心したように頷いてから、せつなは困った顔になった。
「由美に、そんなこと出来るかしら。彼女って、美希ほど完璧に図々しくは無いような気がするんだけど。」
「完璧に図々しいって・・・こら、せつな!」
 美希が、小さく拳を振り上げる。そのとき、電車がスピードを落とし、車内アナウンスが高々と、二人が降りる駅の名前を読み上げた。


「あっ、着いた・・・。危ない危ない、アナウンスを聞き逃してたら、乗り過ごすところだったわね。」
 美希が慌てた様子で席を立つ。せつなも急いでそれに続きながら、何だか不思議な気がしていた。
 五日前にも同じ駅まで電車に乗ったはずなのに、今日はあのときよりずいぶん早く、到着したような気がしたから。


 ☆


 その翌週の日曜日。
「おはよう、美希。」
 四つ葉町公園のドーナツカフェを訪れていた美希は、後ろから駆け寄って来る人影に、笑顔で手を上げた。
「おはよう、せつな。ドーナツ買いに来たの?」
「そう。由美と合唱部のみんなに、差し入れしようと思って。」
 そう言って、せつなは嬉しそうに美希の姿を眺める。
「その服、今日も着てくれているのね。」
「ええ。今日は面会日なの。やっぱりパパにも、娘の新たな魅力を、発見させてあげなくっちゃね。」


 美希が着ているのは、大きなチェック柄の赤いワンピースに、白いサマーニットのボレロ。この前一緒に出かけたとき、せつなが選んだ服だ。澄ましてポーズを決める美希に、せつなも笑顔になる。
 面会日。それは、隣町に暮らす父と弟に、美希が会いに行く日だった。甘い物が好きだというお父さんに、いつものようにお土産のドーナツを買いに来たんだな、とせつなは納得する。


「差し入れって・・・そっか、今日は音楽祭の本番だっけ。」
 美希がふと気付いたように、せつなに尋ねた。
「そうなの。ラブも一緒に行くんだけど、ラブったら、なかなか起きないもんだから・・・。今頃、きっと大慌てで支度してるわ。」
 穏やかに微笑むせつなの表情が、その後の練習の充実ぶりを物語っている。
 実際、あれからせつなは、ダンスレッスンの無い日には、由美と合唱部のメンバーと過ごすことが多かった。と言っても、せつな自身は音楽室の隅に座って、練習を見ているだけだったのだが、せつなが見に来ているというだけで、ヤケに張り切って練習する連中が居たことも、確かだ。


 ワゴンの中でドーナツを袋に詰めていたカオルちゃんが、せつなの顔を見て、ニヤリと笑った。
「メロンドーナツの次は、マロンドーナツだよ~ん。メロンとマロン、名前だけは似てるよねっ。味は全然違うけど~。グハッ!」




 二人でドーナツの袋を抱えて駅に向かう。二つの袋を何気なく眺めたせつなは、二重に折り返された袋の口が、どちらも左側の角だけ三角に折られているのを見て、小さく微笑んだ。
 カオルちゃんの宿題――最悪にばかり目が行くのが『心配』なら、最高の最高にまで目が行ってしまうものは何か――。その答えが、あれから少しずつ形となって、せつなの心の中にある。


 幼い姿のラブに、ラブという名前に託した想いを語って、元の世界へ送り返してくれた、源吉おじいさん。
 自分のせいで割れてしまった宝石の欠片を磨いて、国政に携わる人々に渡したい――ジェフリーの祈りとも言える提案を受け入れた、めくるめく王国一家。
 千香ちゃんが元気になるようにと願いを込めて、懸命にアサガオを育てた女の子。
 そして、仲間が居なくなることが怖いと告白した自分に、一人ぼっちにはならないと、力強く励ましてくれた美希。


 相手の最高の姿を思い描いて、そうなって欲しいと願うとき、人は「頑張れ」と呼びかける。励ましの声を、応援の気持ちを、相手に精一杯届けようとする。その『応援』を受け取ったとき、最高を示す「右の角」は、さらに高いところへ、明るい方へ、進んでいけるものなのかもしれない。今、そうせつなは思う。
 勿論、正解はひとつではないのだろう。人間はひとりひとり、皆違うのだから。
 でも、誰かを笑顔に出来る方法のひとつは、ここにあるような気がしていた。
 そしてもしかしたら、自分も誰かに応援の気持ちを伝えて、最高の姿を見ることが出来るのかもしれないと、せつなはそっと、由美の笑顔を思い浮かべた。


「じゃあね。その、由美っていう子の晴れ姿、せつなのお陰で緊張を克服した姿を、ちゃあんと見て来て。」
 美希が楽しそうにそう言って、せつなに小さく手を振る。今日は、二人の行き先が反対方向なのだ。
「ありがとう。美希も、何か克服したいものがあったら、何でも手伝うわ。」
 真面目とも冗談ともつかない様子で、まっすぐに見つめてくるせつなに、美希はゴクリと唾を飲む。それを見て、せつなが堪え切れずにクスクスと笑い出したとき、改札口の方から、明るい声が響いて来た。


 満面の笑みを浮かべたラブが、息せき切って走って来る。
「せーつなっ、お待たせ!はぁ、やっと追いついたぁ。あれ?美希たん!今日はお出かけ?」
 そこでラブは、美希とせつなを交互に眺めると、途端にキラキラと瞳を輝かせた。
「わっはー!今日の美希たんとせつな、何だか見た目までそっくりだよぉ。な~んか凄~く、仲良しって感じ!」
 言われて二人は、慌てて互いの姿を見比べる。
 無地とチェックの違いがあるとは言え、二人とも赤いワンピースに白いボレロという出で立ち。おまけに揃ってドーナツの袋を抱えている姿は、確かに見た目まで、実に近しい雰囲気で・・・。
「な・・・何言ってるのよっ!!」
 美希とせつなの声が、ぴったりと揃う。もしも声に色があるのなら、二人の声は、それぞれの服の色と同じのはずだ。


「ほら、ラブ、急ぐわよ。早くしないと音楽祭が始まっちゃうわ!」
 せつなが美希に照れ臭そうに微笑んでから、いきなりラブの手を引っ張って、階段を駆け上がる。
「わ、わ、わ・・・。み、美希たん、またね!」
 ラブはせつなに引きずられるようにして、それでも何とか、美希に手を振ってみせた。
「まったく。しょうがないなぁ、もう。」
 美希がやっと、いつもの調子を取り戻す。そして、二人の親友の後ろ姿を見送ると、反対側のホームへの階段を、ゆっくりと、優雅な足取りで上がって行った。


~終~



最終更新:2013年02月12日 15:02