四つ葉になるとき ~第2章:響け!希望のリズム~ Episode8:8月31日の絵日記




「ねえ、せつなぁ!開けてよ~。」
 桃園家の二階にある、せつなの部屋の前。固く閉じられたドアを叩いて、ラブは廊下から部屋の中に向かって呼びかける。
 ラブの後ろには、きょとんと首を傾げるシフォンと、呆れ顔のタルト。そして部屋の中からは、うんともすんとも、返事は聞こえてこない。


「ねぇ。これからは、どうせ毎日見ることになるんだからさぁ。今見せてくれたっていいじゃん!せつなのケチ。」
「ピーチはん。せやったら、別にどうでも今見んでもええんと違いまっか?」
 ため息混じりにそう言うタルトを、ラブは口を尖らせたままで振り返る。
「だって~、早く見てみたいじゃん、せつなの制服姿。きっとかわいいよ!」
 新学期まで、あと二日。この前採寸したせつなの制服を、今朝、あゆみが取りに行って来た。だが、ラブが溜まりに溜まった宿題の山と格闘している間に、せつなはあゆみに見てもらってさっさと試着を済ませると、自分の部屋に着替えに入ってしまったのだ。


「せいふく。かわいい?」
 シフォンがラブの言葉を真似て、プリ?と首を傾げる。
「そうだよ、シフォン。あさってから、せつなもあたしと一緒に学校なんだ~。ああ、もう考えただけで、楽しみすぎるよぉ~!」
「その前に、夏休みの課題を終わらせなきゃいけないんじゃなかったの?ラブ。」
 うっ、と詰まったラブの目の前で、部屋のドアがガチャリと開く。涼しい顔で部屋から出てきたせつなは、最近のお気に入りの、赤いワンピースに白いボレロという出で立ちだ。
「うう・・・頑張りマス。」
 すごすごと自分の部屋へと戻って行くラブの後ろ姿に、クスッと笑いをこぼしてから、せつなはトントンと軽快に、階段を駆け下りた。




   四つ葉になるとき ~第2章:響け!希望のリズム~
   Episode8:8月31日の絵日記




 しーんと静まりかえったフロア。整然と灰色の行列を作っている、おびただしい数のスチール棚。一見すると、かつての故郷の無機質な空間を思わせるのに、この場所は穏やかで落ち着いた、独特の雰囲気を持っている。それは、色も形もバラバラで、棚をひとつひとつ違った模様に彩っている本たちの個性と、それをみんなのものとして大切に扱う、人々の気持ちが感じられるからかもしれない。
 ここの主役である本たちは、ただのデータの集積ではない。著者や編者は勿論、デザインや装丁、出版社に販売店など、携わったたくさんの人々の想いが、様々な形で宿っている。さらによく目を凝らせば、本一冊一冊に丁寧に付けられた分類ラベルや、掲示板に貼られた、「夏休みのおすすめ図書」の手書きポスター・・・本当に、一冊の本に実に多くの人の想いが込められていることを、せつなはここに来るたびに、実感するのだ。


――二学期から、せっちゃんもラブと同じ、四つ葉中学校の二年生よ。


 あゆみにそう言われた日から、せつなは足繁くこの図書館に通っていた。学校がどういうところなのかという話は、ラブや美希や祈里から色々教わってはいるものの、やはり自分で調べておきたいことは、たくさんあったからだ。


 棚から五、六冊の本を抜き出し、閲覧室に向かう。ここにはいつも、老若男女、実に様々な人々が集まっている。こんなにたくさん人がいるのに、こんなに静寂が保たれている場所を、せつなはこの世界では、まだここしか知らない。
 パーティションで小さく区切られた一人用の席は、今日も満席だったので、せつなは部屋の中央に並べられた、大机のひとつを目指した。机をぐるりと囲んでいる二十個ほどの椅子のひとつに腰かけて、持って来た本を開く。そして時折メモを取りながら、速読と言えるような速さで本のページをめくっていく。
(学習内容は、大体わかった。あとは・・・行事?そう言えば、ラブが文化祭や体育祭っていうものがあるって言ってたわ。この世界では教育の場でも、いろんなイベントがあるのね。)


 学校生活の中で、この世界の子供が中学二年生になるまでに辿る道筋――小学校の六年間と中学校の前半で、彼らが学校という場で学ぶこと、経験することは何なのか。それをなるべく知っておきたいと、せつなは思っていた。
 潜入先の人間になり澄ますために情報をくまなく仕入れる、ラビリンスの尖兵としての習性だろうか、とも思う。でも、その場をやり過ごすためでなく、学校生活を円滑に過ごすため――何より、自分を学校に行かせてくれる家族に迷惑をかけないために、出来る限りの準備をしておきたい。
(まあ、集合教育なんて初めての経験だもの。いくら調べたところで、役に立つかはわからないけど。)
 学校行事をまとめたノートを見ながら、心の中でそう呟いたとき、ふと前方から視線を感じた。
 何気なく上げたその顔が、パッとほころぶ。大机の向こう側から、笑顔で小さく手を振っていたのは、彼女の大切な親友のひとり――祈里だった。


 ☆


 二人で連れ立って、図書館を出る。むき出しの腕に痛いくらいの午後の日射しと、競い合うように響くセミの声。まだまだ終わりなんかじゃないぞ、と夏が主張しているかのようだ。
「せつなちゃん、最近よくここで会うよね。何か調べ物?」
 眩しそうに目を細めながら、祈里がいつもののんびりした調子で尋ねる。
「ええ。学校のこと、少し調べておきたくて。」
 せつなはそう言って、乾いた地面にくっきりと映る、自分の影を見つめた。


「ねえ、ブッキー。前に、教えてくれたわよね。本は実物そのものじゃないけど、世界の入り口になってくれるって。」
「ええ。覚えていてくれたのね。」
 せつなの言葉に、祈里は嬉しそうな、それでいて生真面目な顔で、大きく頷いてみせる。
「みんなに色々教えてもらっているけど、私、学校ってどんなところなのか、なかなかイメージが掴めなくて・・・。」
「それで学校のことを調べてるのね。そのぉ、ラビリンスでは、勉強ってどうやって教わってたの?」
「ひとりひとり、自分のレベルに合わせて、コンピュータを使って勉強してたわ。」
 口ごもりながら尋ねる祈里に、穏やかに答えを返して、せつなは少し照れ臭そうに話を続ける。
「明後日学校に行ったら、きっと驚くことがたくさんあるんだろうけど・・・でも、何だか楽しみで、少しドキドキしてるの。本物の学校は、どんな風にこの目に映るのかな、って。」
 そして、そんなことが楽しみだなんて、自分で自分に驚いてるわ――この最後の言葉は口には出さずに、せつなは少し伏し目がちに微笑む。
 せつなの言葉を、どこか心配そうな様子で聞いていた祈里が、ゆっくりと笑顔になった。
「うん、せつなちゃんなら大丈夫よ。きっと楽しめるって、わたし、信じてる。」
「ありがとう。ブッキーにそう言ってもらうと、ホントにそう思えるから、不思議ね。」
 二人の少女は、お互いにそっと目と目を見交わして、静かに微笑み合った。


「ブッキーこそ、最近よく図書館にいるわよね。夏休みの宿題をやってるの?」
 せつながふと気付いてそう問いかけると、祈里は、ううん、と首を横に振った。
「うちの病院に来た女の子に頼まれてね。朝顔のことを調べてるの。」
「朝顔?」
 確か小学校の低学年で、朝顔を育てるという授業があったはずだ、とせつなは覚えたばかりの教育プログラムを、頭の中で思い返す。
「うん。去年、学校で育てた朝顔から取れた種を、家で蒔いたらしいんだけどね。何だか、花がうまく咲かないんですって。何がいけないんだろうって、相談されてね。うちには動物さんの本はいっぱいあるけど、植物の本はあんまり無いから。」
 そう言いながら、祈里は肩にかけた大きな鞄の中から、ルーズリーフが挟まったバインダーを取り出す。そこにはせつなも見慣れた几帳面な字と、繊細なタッチで描かれた朝顔のイラストが並んでいた。
「原因になりそうなことをメモにして渡して、色々試してもらっているんだけど。」
「そうだったの。ちゃんと花が咲くといいわね。」
 真っ直ぐに視線を合わせてそう言うせつなに、祈里はニコリと笑って、もう一度大きく頷いた。


 ☆


「じゃあ、明日のダンスレッスンでね。」
 祈里と別れて商店街を歩き始めたせつなは、サンダルのかかとに何かがコツンと当たったのに気付いて、足を止めた。見ると、まだ新しい赤いクレヨンが、アスファルトの上にコロリと転がっている。
 しゃがんでそれを拾い上げ、辺りを見回す。すると、街路樹の下に置かれたベンチに、大きめのノートとクレヨンの箱を持って、女の子が座っているのが目に入った。


 クレヨンを持って、女の子にそっと近付く。最初は誰かと待ち合わせでもしているのかと思った。が、それにしては真剣な眼差しで、女の子は目の前の商店街の景色を、じっと見つめている。
 やがて、せつなに気付いた女の子は、今までとは一転、きょとんとした顔で、せつなを見つめた。せつなは小さく笑みを浮かべると、手の中に握っていた赤いクレヨンを、彼女に差し出した。
「これ、落ちてたんだけど、あなたのじゃない?」
「えっ?」
 女の子が驚いたような顔をして、クレヨンの箱を開ける。
「ほんとだ、無い・・・。ありがとう、おねえちゃん。」
 クレヨンを受け取って、少し恥ずかしそうに微笑む彼女。せつなも微笑み返して、改めて目の前の少女を見つめた。
 小学校には、もう上がっている年頃だろう。つばの広い麦わら帽子の下の、おかっぱに切られた黒髪。くりくりとよく動くこげ茶色の瞳。そこまではごく普通の女の子だが、Tシャツから覗いている腕も、その頬も、色白でほとんど日に焼けていない。
 女の子は、赤いクレヨンを箱の中にしまうと、人懐っこい笑顔でせつなを見上げた。


「わたし、千香っていうの。おねえちゃんは、この辺りに住んでるの?」
「ええ、そうよ。私は、東せつな。千香ちゃんは、ここで絵を描いていたの?」
 せつなの問いかけに、女の子――千香の顔が少しうつむく。
「ううん。描こうと思ったんだけど・・・。」
 そのときせつなは千香の手の中にあるノートが、普通のノートやスケッチブックとは違うものであることに、やっと気付いた。
「それ、絵日記帳ね。夏休みの宿題?」
 こくんと頷いて、千香が手に持ったそれを、せつなに差し出す。絵日記というのは、確か小学校低学年の、夏休みの宿題の定番メニューだったはずだ。見てもいい?と目顔で問いかけると、千香はページを開いて中を見せてくれた。
 彼女の隣りに座って、絵日記帳を覗き込む。上半分に絵が、下半分の、何本もの縦線が印刷された箇所には文字が書かれている。図書館で見た、絵日記コンクールの入賞作品の写真と同じ書式だ。もっとも、写真で見た絵日記は旅先の風景が多かったが、千香の絵日記帳には、家族でスイカを食べている絵や、庭で花火をしている絵など、手近で味わえる夏の風物詩ばかりが描かれていた。


「千香ね、夏休みが始まる少し前まで、病気で入院してたの。それで夏休みもどこにも行けなかったから、絵日記の宿題、大変なんだ。」
「そう。」
 最後に一枚だけ残った白紙のページを見ながら、せつなは頷く。絵日記の枚数は、全部で五枚。ここでは毎日が新しい発見や喜びに満ちているけれど、絵に描こうと思ったら、確かに難しいのかもしれない。
 千香は、絵日記帳をパタンと閉じると、目の前の商店街を見ながら、明るい声で言った。
「ここはね、ちょっと前に、プリキュアがカメラの化け物をやっつけたところなんだよ。」


 そう言われて、せつなは思わず、あ、と声を上げる。確かにここはひと月ほど前に、カメラのナケワメーケと戦った場所だった。あのときは、道路のあちこちに穴が開き、コンクリートは無残に削り取られた。その修復の跡はまだ生々しく、道路はグレーの濃淡のまだら模様になっている。
 大切なものを守るために懸命に戦っても、ラビリンスの襲撃のたびに、この優しくあたたかな四つ葉町に、傷跡が増えていく。情けなさと申し訳なさに唇を噛みしめるせつなに、再びあどけない声がかけられた。
「プリキュアのおかげで、お店は全部、無事だったんだって。千香が大好きな駄菓子屋さんも、いっつも病院にお花を届けてくれたお花屋さんも、全部。」
 千香はそう言ってせつなの顔を見上げると、やっぱり少し恥ずかしそうに、ニコリと笑った。


「千香ね。病院で大きな手術を受けたんだけど、そのとき、プリキュアが来てくれたんだ。」
「えっ?プリキュアが?」
 せつなが驚きに目を見開く。手術を受ける千香を励ますために、変身して会いに行ったのだろうか。まぁ、ラブたちらしいと言えば、らしい話だけど・・・そう思ったせつなは、千香の言葉の続きを聞いて、今度は思わず苦笑した。
「うん。三人がプリクラで撮った写真を貼った、色紙ももらったんだよ。キュアピーチとキュアベリーとキュアパイン。そのときは、キュアパッションはまだ居なかったから。」
 そうね、と思わず頷きかけて、慌てて笑顔でごまかす。いかにもラブが考えそうなことだと思ったら、おかしくなった。もしもプリキュアになった後だったら、自分もプリクラを撮っていたんだろうと思うと、ちょっとホッとしたような、残念なような気がする。
 幸い千香は、そんなせつなの様子には気付かず、笑顔で話を続けた。


「ときどきね、雑誌のプリキュアの写真に映ってた場所に、来てみるの。プリキュアが頑張った場所、見てみたいから。」
「プリキュアが・・・頑張った場所?」
「うん!プリキュアが頑張ってるって思ったら、千香も頑張れる気がするんだもん。」
 そう言って、千香はまた少しうつむき加減になる。声も少し小さくなったが、自分に言い聞かせるように、はっきりとこう言った。
「あさってから、学校に行くの。凄く久しぶりだから、少し怖いけど・・・プリキュアに負けないように、千香も頑張るんだ。」
 その言葉を聞いた途端、せつなの胸の奥に、どくん、と熱い塊が生まれた。


「千香ちゃん。」
 目の前の小さな相手に向き直る。胸いっぱいに広がって、どくどくと脈打つ熱に押されるように、その茶色い瞳に視線を合わせ、口を開いた。
「私も、あさって初めて学校に行くのよ。四つ葉中学校の、二年生になるの。」
「せつなおねえちゃん、転校生なの?」
 そう思うのが、普通だろう。せつなは千香の目を見つめたまま、小さく頷く。
「私も学校に行くの、少し怖かったんだけど、千香ちゃんの言葉を聞いて、勇気をもらった。私も千香ちゃんに負けないように、精一杯頑張るわ!」


 プリキュアになって、大切なものを守ろうと誓った。精一杯頑張っても、この道路を傷付けてしまったように、全てがうまくいくわけではない。
 それでもこの子は、プリキュアが頑張っているから自分も頑張れると言ってくれた。プリキュアに負けないように、頑張ると言ってくれた。
 それは裏を返せば、プリキュアはずっと頑張ってくれる、この町を守ってくれると信じているということ。そう思ったとき、今まで感じたこともないような力が身体の中から湧き上がってくるのを、せつなは感じたのだ。
 先のことなんて何もわからないから、ただ今を精一杯頑張るだけだと思っていた。でも、精一杯頑張っていれば、未来の自分はきっと誰かを笑顔にできる、幸せにできるって、初めて信じられるような気がした。


(だから――私も千香ちゃんに負けないように、頑張ってみよう。)


 この世界の常識も、まだよく知らない自分。そんな自分が学校に行くことで、家族に迷惑をかけてはいけない――このところ、そのことばかりを考えていた。この世界では、一人の失敗が家族全員に降りかかることがある。特に子供の失敗は、親の責任にされてしまうということが、分かってきたからだ。
 勿論、それは大事なことだと思う。何も言わずに自分を家族として受け入れてくれたあゆみや圭太郎に、これ以上迷惑なんてかけられない。
 でも、千香の言葉を聞いたとき、それだけではいけないような気がした。失敗を怖れてただ様子を見ているだけでは、自分の世界を広げて、笑顔の種をたくさん見つけて行くことは出来ないような気がした。
 だから、思い付く限りの準備をしたその後は、怖がらずに精一杯頑張ってみよう。ダンスレッスンを始めたときのように、自分から、一歩を踏み出してみよう。せつなはそう思いながら、千香の白くて細い手の上に、自分の手を重ねた。


 千香がせつなの目を見返して、うん!と元気に頷く。
「千香ちゃん。もう一度、絵日記帳を見せてもらえるかしら。」
 差し出された絵日記帳を、今度は自分で丁寧にめくる。スイカに花火、朝のラジオ体操、クローバーフェスティバルの屋台――。
 やがて絵日記帳から顔を上げたせつなは、ニコリと笑って、それを千香に返した。
「ねえ、千香ちゃん。明日の朝、四つ葉町公園に来ない?私と三人の仲間が、あそこでダンスの練習をしてるの。もしよかったら、レッスンの前にみんなで遊びましょ。そうしたら、絵日記も完成できるんじゃないかしら。」
「うわぁ、せつなおねえちゃん、ありがとう!」
 キラキラと輝く千香の顔を見ながら、せつなは心から嬉しそうに微笑んだ。



 ☆



 次の日の朝。
「千香ちゃあん、久しぶり~!もうすっかり元気になったんだねっ!」
 四つ葉町公園にやって来た千香は、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくるラブを見て、目を丸くした。
「ラブおねえちゃん・・・えーっ!?せつなおねえちゃんのお友達って、ラブおねえちゃんたちだったの?じゃあ、もしかして・・・。」
 何か言いたそうな千香の先回りをするように、ラブがパチリと片目をつぶる。
「うん!本当は内緒なんだけど、せつなおねえちゃんも、プリキュアの友達なんだ。」
「本当は内緒って・・・。ラブ、あなたちっとも内緒にしてないじゃない。」
 ラブの後ろで、せつなが苦笑しながら、黙っててごめんね、と小さく手を合わせた。まさか「プリキュアの友達」なんて話したとは思わなかったから、昨日この話を聞いたときには随分と呆れたものだ。


「お久しぶり、千香ちゃん。元気になって良かったわね。」
 物陰から、クマの着ぐるみを着たシフォンを抱いて、美希が現れる。リンクルンも一緒に手に持っているところを見ると、どうやら慌ててシフォンを着替えさせたらしい。
「こんにちは、美希おねえちゃん。うわぁ、シフォンちゃん、久しぶり!」
 千香は大喜びでシフォンを抱くと、きょとんとぬいぐるみのフリをしているその顔に頬ずりする。そして、きょろきょろと辺りを見回すと、不思議そうに首をかしげた。
「あれ?祈里おねえちゃんは?」
「ブッキーは、ちょっと用があって遅くなるんだって。もうすぐ来ると思うわ。」
 美希がそう答えたとき。
「あーっ、いた!千香ちゃん、これ、見て見て!」
 公園の入り口から、嬉しそうな大声と、パタパタという足音が聞こえた。
 千香がパッと顔を輝かせて、声の方へと走る。やって来たのは、千香と同い年くらいの女の子。その両手に大事に抱えられているのは、小さな青紫の花を二つ咲かせた、朝顔の鉢だった。


 女の子が、息を弾ませて語り出す。
「ほら、去年学校で育てた朝顔の種、千香ちゃんと交換したでしょ?あの種を蒔いて、やっと花が咲いたんだよ。だから千香ちゃんに、どうしても見せたかったんだ!」
「そうなの。千香ちゃんがここにいるって、よくわかったね。」
 女の子と目の高さを合わせて、ラブが尋ねる。すると女の子の後ろから、ニコニコと笑みを浮かべた祈里が近付いてきた。
「わたしが教えたの。今朝うちの前で会って、千香ちゃんの家に行く途中だって聞いたから。千香ちゃんに、どうしても花の咲いた朝顔を見せて、励ましたかったんだって。新学期に間に合って良かった。」


 千香は、小さいながらも誇らしげに咲いている朝顔と、同じくらい誇らしげな友の顔を見つめて、声を震わせながら言った。
「・・・ありがとう!」


 ☆


 石造りのベンチの上に、うやうやしく置かれた朝顔の鉢。その後ろのベンチに座って、千香は一心にクレヨンを走らせる。千香の隣りでは、朝顔の持ち主が、紙の上に増えていく明るいクレヨンの線を、嬉しそうに見つめている。
 せつなは、ラブと一緒に二人の後ろ姿を眺めながら、昨日感じた塊に似た、でももっと柔らかで優しい熱を、胸の中に感じていた。
 自分は今、もしかしたら、袋の右端か、そのもっと向こうを見ているのかもしれない――そうせつなは思った。千香ちゃんが学校で、あの子と一緒に、今よりもっと元気で頑張っている姿が、見えるような気がする。
 確かめたい気もしたが、残念ながら、まだここにはカオルちゃんは来ていない。それにせつなも、まだあまり自信がなかった。
 不意に、ラブがせつなの手の上に、自分の手を重ねる。
「良かったね、せつな。千香ちゃんの絵日記、これでバッチリだよ!」
「そうね。こういうのが、幸せゲット、よね?」
 いたずらっぽく笑うせつなに、キラリと目を輝かせて、ラブは大きく頷いた。


 ☆


「ねぇ、ブッキー。明日の始業式、ブッキーの学校も、いつもと同じ時間よね?少しだけ、早く家を出られない?」
 ラブとせつなの二つ後ろのベンチで、美希は祈里に小声で問いかける。
「うん、大丈夫だよ。でも、どうして?」
 怪訝そうに小首をかしげる祈里に、美希は一層声を低めて、早口で言った。
「ほら、明日からせつなも学校でしょ?本人は何も言わないけど、きっと不安もあると思うの。ラブは、せつなが制服姿を見せてくれない、なぁんて言ってたしね。だから・・・」
「商店街で待ち伏せして、さりげなく励ましてあげようってわけね?」
「ブッキー、声大きいわよ!」
 嬉しそうに目を輝かせる祈里を、美希が慌てて抑え込む。それから二人は顔を見合わせて、声を忍ばせ、クツクツと笑った。


 ☆


 まだ涼しさを残す朝の風が、少女たちの間を吹き抜ける。今日は夏休み最後の日。期待と不安に満ちたそれぞれの新学期は、まさに目の前だ。


~終~



最終更新:2013年02月12日 15:02