四つ葉になるとき ~第2章:響け!希望のリズム~ Episode6:タルト、またまた危機一髪!?(前編)




「日本を訪れていた、めくるめく王国ご一家が、本日帰国の途に就きました。」
 夕食の後片付けをしていたせつなは、テレビから聞こえてきた声に、顔を上げた。画面には、たくさんの見送りの人々に囲まれた国王と王妃、それに二人の間でニコニコと手を振るジェフリー王子の姿が映っている。
「今回の滞在は比較的長く、ご一家は日本を満喫された模様です。
 中でもジェフリー王子は、その流暢な日本語のみならず、綿あめや輪投げといった日本の庶民文化にも通じているなど、その日本通ぶりで我々を驚かせ、喜ばせてくれました。
 何と言っても、その愛らしい笑顔に魅了された人は、数知れません。」
 各地を巡ったときの、ジェフリーの映像が流される。縁日らしき場所で、綿あめを口にする姿。小学校の子供たちと、サッカーをする姿。そのあどけない、そして心から嬉しそうな笑顔を見て、せつなも自然に頬が緩んだ。


「やっぱり可愛いよねぇ、ジェフリーは。ねっ、せつな。」
 隣りにやってきたラブが、そう言ってせつなの顔を覗きこむ。その妙にニヤニヤとした楽しそうな視線から、せつなはプイと顔をそむけた。
「私は、別に。」
「あれ~?せつな、何だか赤くなってない?」
「なっ、そんなこと・・・」
「ホントに可愛いわね~、この王子様。見ているこっちまで幸せになっちゃうわ。」
 あゆみの言葉に、せつなは慌ててラブに言い返す言葉を飲み込む。同時に、あゆみがあのときの祈里と全く同じ台詞を言っているのに気付いて、可笑しくなった。
 クスリと笑って、もう一度テレビに目をやる。場面はまさに帰国直前、国王の顔を見上げてひとつ頷き、特別機の機内へと入っていくジェフリーの姿だ。
(あれ?何だか・・・。)
 一瞬の後に消えた、ジェフリーの映像。が、その消える間際の彼の姿に、何だか以前会ったときとは違う何かを感じて、せつなは小さく首を傾げた。




   四つ葉になるとき ~第2章:響け!希望のリズム~
   Episode6:タルト、またまた危機一髪!?(前編)




 その事件の始まりに、最初に気付いたのは祈里だった。いや、正確には、このところ祈里が毎朝散歩に連れていく、三匹の小型犬だった。
 朝早く、病院の夜間通用口にもなっている横手の狭い扉から外に出たとき、一足先に外に出た三匹が、いつになくキャンキャンと騒ぎ立てたのだ。何事かと顔を上げると、その場から足早に立ち去るジーンズの片足が、かろうじて祈里の目に留まった。
 三匹が、祈里の顔を見上げて物言いたげにクゥンと鼻を鳴らす。周りに人の気配が無いことを確認してから、祈里はその場にしゃがみ込んで、三匹と視線を合わせる。
「なぁに?何かわたしに、伝えたいことがあるの?」
 優しい声でそう問いかける彼女の肩の上に、キルンがポン、とその姿を現した。


 ☆


 その次に気付いたのは、ラブとせつなだった。ダンスレッスンに向かう途中、二人は顔なじみの花屋のお姉さんに呼び止められたのだ。
「ラブちゃん、せつなちゃん。今日、おたくのフェレットのことを訊きに来た人がいたわよ。あのペットスクープの騒ぎ、まだ続いてるの?」
 心配そうに尋ねられ、ラブとせつなは顔を見合わせる。タルトがスクープされてしまった事件は、もう一週間も前のこと。アニマル吉田はちゃんと約束を守ってくれて、あれからタルトの周りは、至って静かだった。


「そう。何も無いのなら、良かったわ。ちょっとしつこかったから、気になってたの。勿論、ラブちゃんたちが飼い主だなんて言ってないわよ。」
「それって、マスコミの人ですか?」
 ラブの問いに、お姉さんは切り花のバケツの水を替える手を止めて、少し考えた。
「う~ん、マスコミの人には見えなかったけど。膝のところが破れたジーパンに、Tシャツ姿で・・・それと、何だかゆっくり喋る人だったわ。」
 記憶を辿ってそう教えてくれたお姉さんに、ありがとう、とお礼を言いながら、二人の頭の中は、疑問符で一杯だった。


 ☆


「えぇっ!?ブッキーの病院がぁ?」
「怪しい男に見張られている、ですって?」
「どういうこと?」
 ラブ、美希、せつなの三人に詰め寄られて、祈里は困ったように、視線を足元に落とす。
「理由はわからないけど、ワンちゃんたちがもう三日連続で、病院の周りをうろうろしている男の人を見た、って言ってるの。
 お父さんに話して、警察にも連絡したんだけど、ただウロウロしているってだけじゃ、警察もなかなか動いてくれないらしくて・・・。」
 祈里の言葉に、三人はそれぞれ険しい顔で考え込んだ。
 急に静かになったせいか、蝉の声が辺りを包むように響き渡る。四人がいるのは、四つ葉町公園の石造りのベンチ。これからダンスの朝練なのだが、その前に祈里が、今朝犬たちから聞いたことを全員に話したのだった。


「まさか・・・あのペットスクープ絡みってことは、ないよね?」
 ラブの言葉に、美希が目を丸くする。
「え・・・?だって吉田さん、家族に喜んでもらえるペットスクープを目指す、って言ってたじゃない。」
「いやぁ、そうなんだけどさぁ。・・・実はあたしとせつなも、ここへ来る途中、ちょっとヘンな話を聞いたんだ。」
 ラブの説明を聞いて、美希の顔はより一層険しく、祈里の顔は、より一層心配そうになる。
「とにかく、朝練が終わったらブッキーの家に行ってみましょう。何か分かるかもしれないわ。」
 せつなの言葉に、三人ともしっかりと頷いた。




 やって来た三人を部屋に招き入れ、祈里は勉強机が面している窓を開ける。そこからなら、病院の横手――今朝男が立っていた、夜間通用口の辺りを見渡せた。
「あの辺りに立って、病院の中を覗いていたらしいの。」
「あそこから覗いたら、何が見えるの?」
「入院している動物さんたちの、ケージが並んでいるんだけど。」
「ってことは・・・もしもペットスクープ絡みだとしたら、あそこにタルトがいると思って?」
 美希が眉をひそめる。そのとき、
「あ。誰か来たわ。」
 ずっと窓の外に目をやっていたせつなが、冷静な声で言った。


 四人で窓からそっと外を窺う。祈里の言った通り、夜間通用口の隣りにある窓から、男が一人、建物の中を覗き込んでいた。
 白い半袖のTシャツに、ジーンズ姿。それでも暑いのか、しきりに額の汗を拭っている。どうやらまだ若い男のようだ。


「ブッキー、あの人?」
 ラブの問いかけに、祈里は自信なさそうに首をひねる。
「うーん、今朝は、ジーンズがちらっと見えただけだから・・・。」
「少なくとも、ラビリンスではないみたいね。」
 少しホッとした様子で呟くせつな。反対に、ラブはいつになく真面目な顔で、男の姿をじっと見つめた。
「ねえ、せつな。花屋さんが言ってたのって、膝が破れたジーパンにTシャツ姿、だったよね?」
「なるほど・・・。同じ人かもしれないわね。」
 せつなが厳しい表情になる。
「でも、上でも向いてくれなきゃ、顔がはっきりとはわからないわね。」
 美希がそう言って溜息をついたとき、男が苛立たしげに左手を上げて、ガシガシと頭を掻きむしった。


 美希が、あ、と小さく声を上げる。
「あの腕時計・・・。」
「腕時計?」
 せつなが不思議そうに美希の顔を見てから、もう一度男を見やる。男の左手首には、ビニールのてかてかした青いベルトが巻かれていて、それには確かに小さな文字盤が付いている。まるで子供がしているような、いかにも安っぽい腕時計だ。
「あの時計、どこかで見た気がするんだけど・・・。どこだったかしら。」
 ラブが美希と一緒に、うーん、と考え込む。
「えーっと・・・モデルさんの衣装で、付けたことがあるとか?」
「いくらなんでも、あんな・・・って言い方は失礼よね。でも、現場で見たわけじゃないわ。」
「じゃあ街中で、誰かが付けているのを見たとか?」
「ごめんなさい、思い出せないわ。でも、どこかで見たのよね・・・。」
 美希に続いて、ラブと祈里もガックリと肩を落とした。


「ねえ、ラブ。お花屋さんは、ゆっくり喋る人だった、って言ってたわよね。」
 せつなが男から目を離さずに、ラブに話しかける。
「うん、そうだったね。」
「その割に、あの人ずいぶんイライラしているみたい。何かを急いで手に入れたくて、焦っているようにも見えるわ。」
「それが・・・タルト?」
 ラブが不安そうにそう言ったとき、美希が鋭く囁いた。
「あ、ほら。動くわよ。」
 男が相変わらず髪をくしゃくしゃと掻き乱しながら、くるりと向きを変えた。そのまま表通りの方へ、スタスタと歩いていく。
「追いかけよう!」
 言うが早いか部屋を飛び出すラブに、せつな、美希、祈里が続く。だが、四人が表へ出たときには男の姿は既に無く、辺りをいくら探しても、見つけることはできなかった。


 ☆


 ラブたちが不審な男を探していた、その少し後のこと。
 当のタルトは、四つ葉町公園の一角で、ガックリと肩を落としていた。近くに浮かんでいるシフォンが、その様子を不思議そうに見つめている。
「なんやぁ。カオルはん、店休んでんのかいな~。今日一日ドーナツが食べられんやなんて、ホンマ殺生やで~!」
 楽しみにしていたドーナツカフェのワゴンはどこにも見当たらず、公園がやたらと広く感じられる。仕方なく、タルトは元来た道をトボトボと戻り始めた。
「ピーチはんもパッションはんも、毎日ダンス、ダンスでワイにかもうてくれへんし。つか、二人のアイス食べてもうてから、なんやワイに冷たい気ぃがするんやけど。自業自得っちゅうヤツなんかなぁ。」
 誰もいないのを幸い、ぶつぶつと独り言を言うタルト。と、突然その顔が引きつった。いつの間にか何者かが、目の前に立ちふさがっていたのだ。


「わわわわ・・・な、なんやぁ?」
 目の前には、紺色の長い棒のようなものが二本。視線を少し上げてみると、破れ目から膝小僧が覗いている。さらに上へと目を走らせると、そこにあるのはこちらを覗き込んでいる男の、満面の笑み・・・。
「どわっ!」
 思わずしゃべってしまったことに気付いて、タルトは慌てて口を押さえる。同時に、大勢の人間によってたかって・・・それも笑顔で追いかけられた、あのときの恐怖がよみがえってきた。
 急いでシフォンを背中に乗せると、四つ足になって走り出す。笑顔の主は、何事か叫んだかと思うと、彼の後を追って走り出した。その予想以上に素早い動きに、うなじの毛がピーンと逆立つような緊張感が、タルトを襲う。
(うわぁ、堪忍したってぇな~!)


 ところが、公園を出たところで後ろから聞こえてきた言葉に、タルトは思わずずっこけそうになった。
「待ってぇ、そこのナマモノ!言葉しゃべるのか?お前、幸せになれるナマモノか?ちょっと、待て~!」
(ナマモノやない!イキモノやがな。セイブツでもええけど、ナマモノは無いで。あんさん、漢字の読み方、間違うとるで!)
 声には出せないので、心の中でツッコミを入れる。気を取り直して足を速めようとするタルトに、声はなおも追いすがった。
「幸せのナマモノ~!お願いです。俺様、みんな幸せにしたい。タイムリミットまでに、どうかお願い。一緒に、来ヤガレ!」
(丁寧なんか乱暴なんか、そもそも何言うてるんか、さっぱりわからへん!でも・・・ワイがしゃべっても、この人、それには動じひんみたいやなぁ。)
 タルトは意を決してくるりと後ろを向いた。そして、まだ少し距離がある男に呼びかけようと、息を吸い込む。
 その時、急に男の動きが止まった。怯えたように辺りを見回すと、最初に目に付いたらしい脇道に飛び込む。そして男はタルトを置き去りにして、一目散に走り去ってしまった。
「・・・なんやぁ?あれ。」
「キュア~?」
 目をパチクリさせるタルトとシフォンの鼻先を、自転車に乗ったお巡りさんが、のんびりと行き過ぎていった。


 ☆


 そして、そこには実は、もうひとり。
 公園のベンチで昼寝をしていた西隼人は、ドタバタと何かが走り回る物音に、たまらず目を開けた。足音だけでなく、彼が大嫌いなあの言葉までもが、何度も聞こえてきたような気がする。
「ううむ・・・。この世界の人間どもは、なんてしつこいのだ。よし!今度こそ、そいつを捕らえてモフモフ・・・いや、不幸のゲージ、上げさせてもらうぞ!」
 叫ぶと同時にベンチから跳ね起きる。タッと地面に降り立った隼人の目の前には、真夏の午後の強い日射しと、ざわざわと揺れる濃い緑。
「スイッチ!って、あれ・・・だぁれも居ねぇ・・・。」
 彼の呟きをあざ笑うかのように、ツクツクボウシが高らかな声を響かせ始めた。


 ☆


 疲れ切ったタルトが、シフォンを連れて桃園家に戻ってきたとき、謎の男の捜索に行き詰った四人も、ラブの部屋に集まっていた。
「タルト!良かったぁ、無事に帰ってきて。大変なんだよっ!」
「ピーチはん!ちょっと聞いてぇな。今日は大変やったんやぁ!」
 我先に話を進めようとするラブとタルト。せつながラブを、美希がタルトを押しとどめ、祈里が両方の話を整理して、ようやく全ての話が繋がった。とは言っても、分かったことと言えば、どうやらみんな同じ男に振り回されていたらしいということと、男の狙いはやっぱりタルトらしいということ、その二つだけだ。


「それにしても、タルトのことを『幸せの生き物』だなんて、どこからそんな話が出てきたのよ。」
 美希が不思議そうに首をひねる。ペットスクープで騒がれたのは、おへそが無い、ということだけで、そんな迷信じみた話が出てきた覚えは無かった。
「ほら、あのとき商店街にビラが撒かれたでしょ?どうもあれを見た人たちが、そんなことを言い出したみたいよ。」
「それでウエスターが、ナケワメーケでタルトを狙ったりしたわけね。」
 祈里の言葉に、せつながやっと納得がいったというように、小さな声で呟く。
「じゃあ、あの人もその話を信じて、タルトを狙ってるってこと?本気でそんなこと信じるかなぁ。」
 怪訝そうな表情のラブに、祈里が静かに首を振った。
「珍しい動物が、幸福の象徴になるのはよくあることなの。有名なところでは、昔から、白い蛇はとても縁起がいい、なんて言われてるわ。」
「へぇ~!」
「だからぁ、ワイは動物やない。可愛い可愛い妖精さんやぁ!その上、蛇と一緒にするやなんて・・・。」
 不満そうなタルトの呟きは、祈里の話を感心して聞いている三人には、残念ながら届かなかった。


「それで、これからどうする?このままじゃ、タルトが危険よね。」
 美希が眉をひそめて、三人を見回す。しかし、タルトは尻尾をゆらゆらと左右に振りながら、のんびりとした調子で言った。
「せやけど、アイツ、そないに悪いヤツには見えへんかったで。なんやワイのこと、誤解しとるようやったけどな。せやから、ちゃんと話して誤解さえ解ければ・・・」
「なに呑気なこと言ってんのよ!」
 バン、と机を叩いて立ち上がったラブの剣幕に、タルトは思わず縮こまる。その身体がふいに抱き上げられたかと思うと、うるんだ大きな瞳に、至近距離から覗き込まれた。
「狙われてるのは、タルトなんだよ?ホントにわかってんの?タルトが・・・あたしたちの大切な家族が、また危ない目に遭ったら、あたし・・・。」
 そこまで言うと、ラブは耐え切れなくなったように、タルトをぎゅっと抱きしめた。
「あたし、この前タルトが病院から居なくなったとき、すっごく心配したんだからね。あんな思い、もうしたくないよ。」
「ピーチはん・・・。」
 早くも泣きそうになっているタルトの頭を、せつながちょんと指で小突く。
「そうよ。だから今度ばかりは、心配かけないでよね、タルト。」
「ここまで言われちゃ仕方ないわね、タルト。今度こそ大人しくしてなさい。」
「そうそう。またラブちゃんとせつなちゃんに追いかけられても、助けてあげないんだから。」
「みんなぁ・・・。」
 美希と祈里も加わって、タルトの涙腺は、あっという間に崩壊した。



 ☆



 次の日の午後。
 二日ぶりに店を開けたカオルちゃんは、近付いてくる人影を見て、あれ?と意外そうな声を上げた。
「いらっしゃい。珍しいね、お嬢ちゃん一人?」
「ええ。でも、多分みんなともまた後で来ます。今は、タルトの分を買いに来たの。」
 少しはにかんだ笑みを浮かべたせつなが、静かに店の前に立った。


 タルトの好みを知り尽くしているカオルちゃんが、ドーナツを手際良く紙袋に詰めていく。
「へぇ。兄弟がそんなに大人しくしてるなんて、珍しいことがダブルで来たね。グハッ!」
 話を聞いて、相変わらず軽~い口調で返すカオルちゃんに、せつなは苦笑する。が、
「まぁ、それだけ心配されてるんじゃ、仕方ないか。兄弟は幸せモンだよねぇ~。」
 そう言って笑うカオルちゃんを見て、何やら考え込んでしまった。


 あれから四人で相談した結果、せつなたちは、やっぱりあの男を探すことにした。もしかしたらタルトの言う通り、ちゃんと話せば誤解が解けるかもしれない。それでタルトを追いかけるのをやめてくれれば、それが一番いい。そう思ったからだ。
 ただし、タルトはこれには加わらず、シフォンと留守番していること。そして、もし誰かが彼を見つけたら、必ず他の三人に連絡して、四人揃ってから声をかけること。この二つを必ず守ろうと、約束した。
 あゆみと圭太郎にも、タルトを探し回っている人物がいるらしいと告げた。これには、二人に心配をかけるだけなのではないかと、せつなは最初、反対した。だがラブは明るく笑って、
「タルトはうちの家族だもん。お父さんやお母さんに話すのは、当然だよ。」
 と言い切った――。


「あの。」
 せつなが思い切った様子で、カオルちゃんに声をかける。
「心配されるって、幸せなことなんですか?私には、大切な人を苦しめるだけなんじゃないかって思えるんですけど。」
 カオルちゃんは、ポカンとした顔でせつなを見てから、やがてその口元を、わずかにほころばせた。
「う~ん、そうだなぁ。心配ってのは苦しいし、長くて重い心配ってのも、世の中には五万とあるだろうけどね~。」
 空を仰いでそう呟いてから、彼はせつなに向き直る。


「お嬢ちゃんさ。この前兄弟が騒ぎに巻き込まれたとき、心配した、って言ってたよね。あのとき、どんな気持ちだった?」
 え・・・と目をパチパチさせてから、せつなはうつむいて、あのときの自分の気持ちを思い出す。
「とっても不安で、ドキドキして、タルトの具合が良くならなかったらどうしよう、具合の悪いタルトがもしも見つからなかったらどうしようって、そんなことばっかり考えて・・・。」
「それから?兄弟が見つかって、どう思った?」
「お腹も大したことないってわかって、無事に見つかって。凄くホッとして、安心して・・・。」
「うんうん。その、元気で無事でいる兄弟の姿、心配してる間、頭に浮かばなかった?きっとこういう姿でいてくれるって、そういう祈るような気持ち、なかった?」
「あ。」
 せつながわずかに顔を上げる。その様子を見て、カオルちゃんは口元に小さく笑みを浮かべた。


「不思議だよね~。毎日元気でいるのがあったり前の人が、たま~に具合悪くなったりするとさ。また元気になったとき、それがあったり前なのに、妙に嬉しかったり、ありがたかったりするんだよね~。」
 カオルちゃんはそう言いながら、トントンと袋の中のドーナツを落ち着かせる。そして袋の口を真っ直ぐに二回折り曲げると、折り目をしごいた右手の人差し指を、そのまま袋の右の角に載せた。続いて左手の人差し指を、左の角に載せる。
「こっちが最悪で、こっちが最高だとしたらさ。誰だって、この間のどこかにいるんだよね。」
 カオルちゃんが、左手の人差し指で袋の左の角をつつく。
「こっちの、最悪の怖さにばっかり目が行っちまうのが『心配』ってヤツでさ。でもほら、こっち。」
 今度は右の人差し指で反対側の角を叩いて、カオルちゃんは言葉を続ける。
「こっちの、最高・・・は難しいかもしんないけど、いいときの相手を知ってるから、心配も出来るのよ。いつかこっちの、いい状況になれるに違いない、いや、今はもう「いいとき」になってるかもしれないって、そんな希望があるからさ。
 そもそも最悪しかないって完全に思ってたら、心配したくたって、出来ないもんね~。」
 そこでニヤリと笑って、カオルちゃんはもう一度、袋の折り目を左から右に向かって丁寧にしごいた。
「そんな風に、いいときの――最高の自分を思い描いてくれる人がいたら、苦しめて申し訳ないって気持ちと一緒にさ。嬉しくて、ありがたくて、何とかそんな自分になれるように頑張ろうって、オジサン思うな~。」


 真剣な顔で頷くせつなの耳に、あのときのラブの声がよみがえる。
――せつなを独り置いて行けないよ。あたしだって、せつなが心配なんだからぁ。
 あのとき・・・ドームで倒れたせつなを、医務室で介抱してくれたときの、ラブの言葉。ラブが思い描いてくれた「いいとき」は、あのときは偽りのものでしかなかった。
 今はどうなんだろう。ラブは自分のどんな姿を、「いいとき」の自分と思ってくれているんだろう。そして今の自分は、そんな姿に少しでも、近付くことができているんだろうか。


「お嬢ちゃん。」
 黙り込んだせつなに、カオルちゃんはまた能天気な声で話しかける。
「最悪にばっかり目が行っちまうのが『心配』って言ったろ?じゃあさ、最高にばっかり・・・時には、最高の最高、もーっと向こうにまで目が行っちまうのは、何だと思う?」
「え・・・?」
 困った顔をするせつなにもう一度ニヤッと笑って、カオルちゃんは袋の左の角を三角に折る。
「じゃ、これは宿題な。ヘンなたとえに使っちまったから、最悪の角はまぁるくしとくから。あ、これ三角か。グハッ!」


 ドーナツの袋と宿題と、それから何だかぬくもりまで一緒に手渡されたような気がして、せつなは少し照れ臭そうな笑顔で言った。
「ありがとう・・・カオルさん。」
 途端にカオルちゃんの眉毛が、情けないくらいにカタッと下がる。
「お嬢ちゃん、カオルさんはやめてよ~。オジサンのコードネームは、カオルちゃん。そこんとこ、よろしく!」
 ぐっと親指を立てる男を、「カオルちゃん」と呼び直すのは恥ずかしくて、せつなは真っ赤な顔でぺコンとお辞儀をすると、早足でドーナツカフェを後にした。




 四つ葉町商店街に差し掛かると、向こうからラブが駆けてきた。今は四人それぞれ手分けして、昨日の男を探していたのだ。
「せつな~!何か手掛かり見つかった?あ、ドーナツ!嬉しいなぁ。あたしのために買ってきてくれるなんて、感激だよぉ!」
 一気にまくしたてるラブに、せつなは悪戯っぽく笑って、ドーナツの袋をさっと背中に隠す。
「だ~め、これはタルトの。一日中家に居て退屈してると思うから、せめておやつに、ね。」
「そっか。そうだよね。タルト、きっと大喜びするよ。」
 その言葉を聞いてふっと真面目な表情になったラブは、しかし次の瞬間、甘えるような上目遣いでせつなを見た。
「でもさぁ、こんな大きな袋ってことは、何個もあるよね?じゃあじゃあ、一個だけ~」
「ダメ!」
 せつながきっぱりとそう言ったとき、ドーン、という破壊音が、辺りに響いた。
「何の音!?」
 二人の空気が、一瞬で張り詰める。
「こっち!」
 ドーナツの袋を抱えて駆け出すせつなに、ラブも続いた。


 天使の像の方向に、盛大な土煙が見える。ドーン、ドーンという破壊音も、近付いてくる。やがて建物の陰から現れたものを見て、ラブとせつなは凍りついた。
 淡いグレーの身体に、太くて長い尻尾。水色の襟飾りは、今は何だか刺々しいものに変化している。
「・・・な、なんでっ!?」
「・・・まさか、そんな!?」
 呆然とする二人に、その生物・・・いや、怪物は、
「ナケワメーケ!!」
 辺りを揺るがすほどの咆哮を上げた。


~前編・終~



最終更新:2013年02月12日 15:01