桃源まで、東へ五分(第4章:未来へハイタッチ!)




半ズボンのポケットにあるものを時々触って確かめながら、
夕暮れが近付く通りを、少年は黙々と歩く。


物心ついたときから、母は一緒に暮らす人、父は外で会う人だった。
幼い頃は母に連れられて、小学校に上がってからは一人で、父に会いに行った。


何でも我儘を聞いてくれ、高価なおもちゃも簡単に買ってくれる父。
その代わり、会いに行っても一緒に過ごす時間はごく短いものだった。
それでも以前は、父と一緒によく遊んでいたような気がする。
キャッチボールの合間に見せる、誇らしそうな笑顔。
オセロで負けて悔しがる自分をなだめる、オロオロした顔。
実に楽しそうに遊んでくれる、父の表情が大好きだった。


しかし大きくなるにつれ、外野の声が耳に入ってくる。
母が自分のせいで、心通わせた人との再婚に踏み切れないでいるのだと。
父が自分に優しいのは、将来、会社の跡取りにしたいと考えているからだと。


親はただ自分の親であるだけでなく、それぞれ一人の人間だということ。
自分は必ずしも、彼らの一番ではないのかもしれないということ。
幼くしてそれを知った時、心のどこかに、冷たく静かな自分だけの場所が生まれた。


ひんやりとしたその場所にたった一人、膝を抱えて座り込む。
母が再婚して新しい父が出来れば、今の父とは会えなくなるかもしれない。
父の跡取りになることを受け入れれば、もう母とは暮らせなくなるかもしれない。
そんなどうしようもないことを、考えてしまう自分が嫌で。
そんなことを考えながら、親たちの顔を見る自分がもっと嫌で。
母にわざと我儘を言って、困らせることが多くなった。
父の家を訪れても父を避け、ゆっくり話すことなどなくなった。


早く大人になりたい。
父に縛られず、母を縛らず、誰にも頼らず生きていける大人に。
たった一人でも生きていける、強い大人に。今すぐにでも。
そして、それが出来ないのなら・・・。


少年は歩く。
わずかに伸びた影を従え、
しんと冷えた心の景色を、その瞳に宿らせて。




  桃源まで、東へ五分 ( 第4章:未来へハイタッチ! )




 四つ葉町の街外れに広がる森。ここだけは、二十五年の歳月を跳び越えても少しも変わっていないように、せつなの目には映っていた。
 木々の枝葉が傾きかけた陽光を遮り、せつなとタルトの影を消す。上から降ってくるざわざわという音は、まるで森がひとつの意志を持ち、ここでは自分が主だと主張しているように聞こえる。
 イースだった頃は、ここを通るたびに、自分の心が森に見透かされているような気がして、ざわめく木の葉をぐっと睨みつけたものだった。
 そんなことを思い出して拳を固く握ったせつなを、タルトが走りながら心配そうに見上げる。
「パッションはん。大丈夫かぁ?」
「平気よ。そろそろ追いつくかしら。」
 せつなが過去の記憶を振り払おうとでもするように、なお一層足を速める。タルトも負けじと、彼女に追いすがった。




 森の中を、二つの影が歩いていく。大きな影と小さな影。南瞬の姿をしているサウラーと、ズボンのポケットに両手を突っ込んだ、あの少年だ。やがて大きな影が立ち止まると、それを見て、小さな影もその歩みを止めた。
「さぁ、ここだ。約束通り、渡してもらおうか。」
「ここってどこ?マシンの姿を拝んでからじゃなきゃ、渡せやしないよ。」
 深い森の中で突然立ち止まったサウラーに、少年は不安そうにきょろきょろしながら、それでも言葉だけは勇ましく言い返す。
「ほほぉ。なかなかしっかりしているね。いいだろう。スイッチ・オーバー!」
 サウラーが、おもむろに本来の姿に戻り、そこに立っている巨木の幹に右手を当てる。すると、その手を中心に次元の扉が開き、タイムマシンがその姿を現した。
「うわっ、こんなところに隠してたんだ。」
「誰かに盗られないとも限らないからねぇ。さあ、部品を渡してくれるかい?」
 ニヤリと笑って右手を差し出すサウラーに、少年は一歩後ずさり、意を決したように、その顔をまっすぐに見据えた。
「その前に。約束、ホントに守ってくれるんだよね?」
「無論だよ。信じられないかい?」
 少年が、サウラーの冷たい瞳を覗き込む。
「じゃあその証拠に、先にマシンの中を見せてくれない?」
「お好きなだけ、どうぞ。」


 少年がマシンの前扉を開けて操縦席に乗り込むと、サウラーはその扉を押さえたままで中を覗き込み、ごちゃごちゃとした計器類を指差した。
「これが今の時間。そして隣りにあるのが、行き先の時間だね。そしてこっちで場所を設定するようだ。一度跳んだらノンストップだから、タイムトラベルを止めるためのブレーキは無いようだね。」
「・・・なんだか他人事みたいな言い方だけど、おにいさん、これに乗ったことあるんだよね?」
「勿論あるとも。だが、操縦したのも、これを作ったのも、僕ではないんでね。まぁこの程度の機械なら、見ただけで扱える。要は、車とほとんど同じさ。ま、多大なエネルギーが必要ではあるようだが。」
 自信たっぷりのサウラーに、ふぅん、と気のなさそうな返事をして、少年はじっとマシンの計器を見つめる。そして何気ない様子で、そのつまみに手を伸ばした。
「今から九年前の、19××年。えーっと日付は・・・今日と同じでいいや。」
「おいおい、君。何を勝手にマシンをいじっているんだい?」
 サウラーの呆れた声に、少年はニヤリと笑って振り返る。
「だって、約束通り俺を過去に連れて行ってくれるんだろ?だったら先に、目的の時間を設定しておこうと思ってさ。」
「ふぅん、手回しがいいねぇ。」


 サウラーは落ち着いた表情でひょいと身を引くと、マシンから離れた。その様子をじっと窺っていた少年も、ゆっくりと操縦席を離れ、外へ出る。
「さぁ、今度こそ渡してくれるかい?」
 三度促された少年は、今度は素直に頷くと、ズボンの右ポケットの中から、丸くて銀色に光る鏡のような物体を取り出した。
「よぉし、良い子だ。取り付け位置はここだな。」
 サウラーは少年から部品を受け取ると、ちょうど車で言うところのフロントガラスの真ん前、ボンネットの付け根あたりにある小さなくぼみに、その部品をはめ込んだ。
「これでよし。さて、出発するとしよう。」
「うん。」
 少年が、マシンの後部座席のドアに手をかける。と、その手をサウラーが掴み、マシンから引き離した。
「君には感謝しなくちゃいけないねえ。僕が帰る手助けをしてくれて、礼を言うよ。」
「・・・!」
 サウラーが少年の肩を軽く突き放す。それだけで、少年は後方へ弾き飛ばされ、もんどりうって地面に転がった。
「よし。・・・これで本当にさよならだな、イース。」
 口の中でそうつぶやきながら、サウラーは素早く操縦席に乗り込む。計器のつまみをいじり、マシンのエンジンをかけ、エネルギー増幅器のレバーを引き絞ると、さっき取り付けた部品の鏡のように丸い面から、見る見るうちに金色の光が溢れ出した。
「そのまま未来へ。・・・なに!?」


 突然、サウラーの顔が驚愕に歪む。
 部品の表面から真っ直ぐな軌道を描いて飛び出した金色の光は、行くあてもなく森の木にぶち当たり、生木の表面に黒い焦げ跡と一筋の煙を残しただけで、力なく消えてしまったのだ。
 慌てて操縦席から飛び降りるサウラー。その背中に、やけに冷静な声がこう呼びかけた。
「甘いよ、おにいさん。人との約束をいとも簡単に破っておいて、自分だけ未来に帰れるとでも思ったの?」


 怒りを宿した少年の瞳が、きっとサウラーを睨みつける。
「おのれ・・・。一体何をしたと言うんだ!」
 焦ってもう一度部品を見なおしたサウラーは、ボンネットの付け根にもうひとつくぼみがあるのを発見し、舌打ちをしながら少年の方に向き直った。
「わかったぞ。部品はもうひとつあったんだな!」
 もうひとつのくぼみに同じ部品を取り付ければ、二枚の鏡が相対するような格好になる。その間でエネルギーを増幅させ、アンテナに飛ばしてタイム・リープの跳躍力を得るのだろう。
「ご名答。でもおにいさん、気付くのが遅いや。残念ながら、おにいさんにはもう渡せないしね。」
 少年はそう言いながら、その場から逃げだそうと身構える。ところがサウラーは少年に迫る気配も無く、ほぉっと大きな息を吐くと、力なくこう呟いた。
「ふん。今更部品を渡してもらっても、もう後の祭りだよ。」
 その感情の籠らない、そしてそれだけに真に迫った言葉に、少年はドキリと視線を動かした。
「ど、どういうことだよ。」
「君のせいで、貴重な燃料を無駄にしてしまったのさ。この時代には無い、高性能な燃料だ。僕はこのマシンの燃費を知らないがね。下手したら、このマシンはもう過去へも未来へも、跳ぶことは出来ないかもしれない。」
「そ・・・そんな・・・。」
 へなへなと膝から崩れ落ちる少年。暗い瞳のサウラーが、ゆっくりと彼に近付く。
 そのとき。目にもとまらぬ速さで、ひとつの影が二人の間に飛び込んだ。


「イースか。」
「サウラー!この子に何をする気!?」
 両手を広げ、少年を庇うように立ちふさがるせつなに、サウラーは相変わらず感情の籠らない声で呼びかける。
「ふん。何をする気か、その子に訊いた方がいいみたいだね。君もその子のせいで、もう元の時代へは戻れないかもしれないよ。」
「なんですって?」
「おねえちゃん・・・おねえちゃん・・・ごめんなさい・・・。」


 少年は、涙ながらに話し始める。
 マシンがこの時代に現れてトラックの上に墜落したとき、偶然、対になった部品を二つとも拾ったこと。後から大切なものらしいと知って、部品を渡す代わりに、自分も過去に連れて行ってもらうことを思いついたこと。部品をひとつしか渡さなかったのは、サウラーを信用していなかったため。部品を渡してタイムマシンの構造や操縦方法を聞き出し、後からせつなとタルトを連れて、マシンを奪いに来るつもりであったこと・・・。
「まったく、そんな無茶な計画を・・・。そんなにまでして、過去に戻りたかったの?」
「・・・父さんと母さんに、頼みに行きたかったんだ。離婚なんてやめて、って。家族三人で、ずっと一緒に暮らしたい、って。」
 今のままでは、父か母、いずれはどちらかを選ばなければならなくなる。でも出来ることなら、自分は父とも母とも、一緒に居たい。
「ダメなんだ。俺はまだ子供で・・・どうしたって、父さんにも母さんにも迷惑をかける。こんな俺のこと、父さんも母さんも、本当は持てあましているに違いないし。
 だから・・・早く大人になりたい。でも・・・でも、そんなことは無理だから・・・。もし、父さんと母さんが別れる過去を変えられないんなら、俺なんか・・・」
「そうだね。そんなくだらないことを考えるくらいなら、君は生まれて来ない方が良かったかもしれないね。」
「サウラー!なんてこと言うの!」


 マシンにもたれかかり、口の端を斜めに上げながら腕組みしているサウラーを、せつなは厳しい目でにらみつけた。サウラーは少年をひたと見据えたまま、なおも言い募る。
「なんの力も無い子供である君は、誰か大人の庇護を受けなければならない。この世界では、そう決められているんだよ。
 ならばそれ以上のものを望まず、自分の運命を受け入れて生きていくのが、まともな人間のすることなんじゃないのかい?
 それが出来ず、自分の過去はおろか庇護者の過去まで変えたいなどと言うヤツは、最初から生まれて来ない方がマシさ。」
「違う!生まれて来ない方が良かった人間なんていないわ!」
「ほぉ。同病相哀れむというヤツかい?イース。君だって、ラビリンスのイースだったという事実からは逃れられない。その姿が何よりの証拠じゃないのかい?
 運命を変えたつもりになっているのかもしれないが、過去はどうあがいても、変えられやしないのさ。」
 勝ち誇ったようなサウラーの声に、少年は深くうなだれる。しかし、すぐ目の前から聞こえて来た、静かだが力強い声に、再びその顔を上げた。
「いいえ。変えるのは過去じゃない。未来よ。私はみんなから、そう教わったわ。」


 夕闇が迫り、さらに暗くなりかけた森の中。せつなの銀髪が淡い輝きを放って、涙で濡れた少年の目に映る。
「サウラー。あなただって同じよ。未来の全てが決められているわけじゃない。あなただって、そう望めば・・・」
「ふん、よしてくれ。僕は君と違って、メビウス様のお傍にお仕えすることこそが喜びだ!」


 サウラーの拳が、せつなを襲う。咄嗟に少年を突き飛ばしたせつなは、間一髪で攻撃を回避したものの、バランスを崩して転倒した。そのはずみで、リンクルンがケースから飛び出し、草むらの中へその姿を消す。
「あっ!」
「ふふふ。まずはここでプリキュアを一人倒しておけば、メビウス様もお喜びになるだろう。帰る算段は、その後だっ!」
「おねえちゃんっ!」
 そのとき。


――べちょん!
――バシン!
――ゴンッ!


 立て続けに響いた三つの音。その後に、何かがドサリと倒れる音が聞こえて、せつなはそろそろと顔を上げた。
 マシンを背にして、サウラーが仰向けに倒れている。どうやら倒れる時に、開けっぱなしにしていたマシンのドアで、後頭部をしたたかに打ちつけたらしい。
 その顔の辺りに落ちているのは、中身が散らばった赤い手提げカバンと、何やら白っぽい塊。その塊がむっくりと起き上がり、イタタ・・・と小さく声を上げた。
「タルト!」
 せつなと少年の声が揃う。ぴょこんと立ち上がって、得意げに親指を突き出そうとしたタルトは、そこで慌てたように口に手を当てると、急いで木の陰に隠れた。
「ん?」
 小首をかしげたせつなは、つかつかとサウラーに歩み寄る人影を見て、あぜんとする。
 肩で息をしながら手提げカバンを拾い上げ、散らばった中身を手早く元に戻して、せつなにニコリと笑って見せたのは――あゆみだった。


「うっ・・・。」
 サウラーが小さく呻く。せつなは急いでリンクルンを拾い、身構えた。
「あゆみさん。危ないから、こっちに来て。」
 しかし、あゆみは手提げカバンを握りしめ、サウラーの顔を見つめたまま、動こうとしない。
「あゆみさん!」
「うっ・・・イース・・・!」
 跳ね起きようとしたサウラーの体が、ぐらりとよろける。彼はそのまま地面に手を付くと、今度はよろよろと起き上がった。そんなサウラーをじっと見つめていたあゆみが、恐る恐る声をかける。
「あなた・・・お腹空いてるんじゃない?」


 せつなはハッとしてあゆみを見た。
 どうして今まで気付かなかったのだろう。サウラーがこの時代の人々の助けを何も借りていないのであれば、彼はこの時代に来てから丸二日、何も口にしていない可能性が高いのだ。その状態で、マシンの部品を探して炎天下を歩きまわったり、あろうことか自分と格闘したりしていた。いくら体力のあるサウラーでも、ふらふらになって当然だ。
 遠征中のラビリンス幹部の食事は、基本的に本国から支給される。また、この世界の金銭も、日常生活に必要なくらいの少額ならば、支給されている。
 しかしここは二十五年前の世界。いくら現金を持っているとはいえ、貨幣自体が変わっているのでは、使いようがない。変わっていないのはごく一部の小額コインのみ。これではほとんど現金を持っていないのに等しい。
 自分は、少年やあゆみや源吉に助けられ、この二日間を何不自由なく過ごすことができた。そのことに改めて感謝しつつ、自分が全く気付くことができなかったサウラーの状況にひと目で気付いたあゆみを、せつなは驚きと羨望の眼差しで見つめた。


「ふっ。何を言ってるんだ、君は。」
 強がりを言う傍から、サウラーのお腹がグーッと派手な音を立てる。
 あゆみは急いで手提げカバンの中を探ると、可愛らしいピンクのリボンで結ばれた、ビニールの包みを取り出した。
「これ、お父さんへのお土産だったんだけど、あなたにあげるわ。友達が作ったクッキーで、凄く美味しいの。あ・・・ごめんなさい。さっきカバンをぶつけたから、少し・・・いや、かなり割れちゃったけど。」
「なっ・・・こんなものっ!」
 あゆみに対して圧倒的な力を持っているはずのサウラーが、口ごもりながら後ずさる。あゆみは臆することなく彼に近づくと、その手にクッキーの包みを握らせ、自分はくるりと踵を返した。
「そんなんじゃとても足りないわよね。あと、飲み物もいるし。待ってて、すぐ持ってくる!」
 急いで駆け去っていく少女の後ろ姿を、サウラーはクッキーの包みをしっかりと握ったまま、ただ呆然と見送った。


「良かったわね、サウラー。これだって、あなたにとっては決められた未来じゃなかったはずでしょう?」
「う、うるさいっ!何なんだ、あの女はっ!」
 クッキーの包みを握り潰さんばかりに力を込めるサウラーに、せつなが冷静な一言を浴びせる。
「食べておいた方がいいわ。また元の時代に戻って、私たちと相対したいのならね。」
「そんなこと・・・出来ると思っているのか。」
「やってみなければ、わからないでしょう?」
 じっと見つめるせつなの視線から、サウラーが目をそらす。そして、森の巨木の一本を見上げると、音も無くその枝へと跳び上がった。


「わっ、逃げたんか?」
「さすがに私たちの前じゃ食べにくいでしょ。」
 せつながタルトの言葉にニコリと笑うと、まだそこに座り込んだままになっている少年の顔を覗き込む。
 少年は、ズボンの左のポケットをごそごそと探ると、さっきと同じ鏡のような部品を取り出して、せつなの手に押し付けた。
「ありがとう。」
 せつなが再び、ニコリと笑う。その視線を受け止めきれずにうつむいた少年は、そのままギュッと細い腕に抱きしめられて、驚きに目を見開いた。
「・・・おねえちゃん?」
「ごめん。ごめんね。あなたが何かを抱えていることに気付いてたのに、何も聞いてあげられなくて。私たちが来たことで、あなたを追い詰めてしまったのかもしれないわね。」
「そんなこと・・・。」
「本当は、お父さんと仲良くしたいんでしょ?忙しくてなかなか一緒に居られないけど、もっといろんな話をしたいんでしょ?」
 少年の瞳に、涙が盛り上がる。
「だったら、あなたからそう言えばいいのよ。あなたから、いろんな話をすればいいの。そうやってお互いに歩み寄って・・・」
 そこでせつなの声が途切れたのを、少年は一瞬、いぶかしく思う。が、すぐにまた、落ち着いたアルトの声が静かに響いてきた。
「・・・お互いに歩み寄っていけば、きっとお互いの気持ちがもっとわかるようになるわ。そうすれば、一番いい方法が見つかるはずよ。だって・・・」
 そう言って、せつなは少年の体を離すと、微笑みを湛えた目で、彼の目を見つめた。
「だって、家族なんだから。」
 その言葉に、少年は照れ笑いのような笑みを浮かべながら、しっかりと頷いたのだった。


「おねえちゃん。」
 少年が、サウラーが消えた梢をちらりと見上げてから、改めてせつなに向き直る。
「あいつ、おねえちゃんのこと、『イース』って呼んでた。それがおねえちゃんの名前?」
 少し伏し目がちになったせつなが、それでも微笑を失わず、静かにかぶりを振る。
「それは、私がかつて呼ばれていた名前。今は違うわ。
 ある人と出会ってね、私の未来は変わったの。ううん、未来なんて持っていなかった私が、新しい未来をもらったの。」
「新しい・・・未来?」
「そう。まだ何も描かれていない、何ひとつ決められていない、眩しいくらいにまっさらな未来。そんなものを手にする日が来るなんて、思ってもいなかった。」
 せつなはそう言って立ち上がり、一層暗くなった森の奥に目をやる。
「過去ばかり見つめているとね。そんな未来が眩しすぎて、どうしていいかわからなくなるの。だから、私は決めたの。今を精一杯がんばるって。これから先のことなんてまだわからないけど、今を少しずつ積み重ねていくことで、未来を作っていこうって。」
「・・・僕にもあるのかな?新しい未来。」
「もちろん。あなたの中には、未来がいっぱい詰まってるわ。」
 せつなは、少年が自分のことを、背伸びした「俺」という言い方ではなく、いつの間にか「僕」と言っているのに気付いて、柔らかな笑顔を浮かべた。
 少年の方は、そんなせつなの顔を見て、何か違和感を覚えていた。何だろうと首をかしげて、その正体に気付く。
 薄明りに淡い光を放っていた銀髪が、今は光を放っていないのだ。一層暗くなった周囲に溶け込むように、少女の髪が黒々と見える。
 少年はそれを、日暮れとともにますます濃くなる闇のせいだろうと、また一人で勝手に納得した。


「さあ、もう遅いから家に帰って。お父さん、心配するわよ。」
「うん・・・。おねえちゃんは、どうするの?」
 少年の質問に、せつなは少し考え込む。
「あゆみさんが戻ってくるかもしれないから、待ってるわ。この部品をマシンに取り付けて、状態も確認しておきたいし。」
「・・・。」
 マシンと聞いて再びうつむく少年の顎に手をかけ、せつなはグイとその顔を上向かせる。
「大丈夫よ。私、精一杯頑張るから。それに・・・」
 そう言って、せつなは少年の耳に口を寄せた。
「・・・いい考えが、無いこともないわ。」
「ホント?じゃあ、大丈夫なの?」
 少年の顔が、わずかに明るくなる。
「ええ。だからあなたは安心して、あなたがやるべきことをやって。」
「・・・わかった!」


「なんや、急に元気になったみたいやな~。」
 せつなの後ろから、タルトがおどけた顔を覗かせる。
「返すの忘れとった。これ、あんさんのやろ?」
「あっ、そうだったわ。ごめんなさい。」
 タルトが、手に持ったものを少年に差し出す。それは、少年が昨日せつなに貸した、野球帽だった。
「あゆみはんがサウラーにカバンを投げ付けた時、中から飛び出したみたいや。ここで渡せて良かったで~。」
「ありがと、タルト。タルトも元気でね。」
「うっ・・・あんさんもなぁ!」




 涙もろいタルトの懸命の笑顔に手を振って、少年は森を後にする。街外れの通りまで来た時、彼はかぶっていた野球帽を脱ぐと、その内側に書かれたマジックのイニシャルに目をやった。
(K.T。・・・カオル・タチバナ。)
 近い将来、もしかしたら自分の苗字は、橘ではなくなるかもしれない。それでも、自分にとって父は紛れもなく父であり、母は紛れもなく母だと、今は確かにそう思えた。
 少年は、再び野球帽をかぶり直すと、今度は立ち止まらず、父の家までぐんぐんと駆けた。もしも父が家に帰っていたら、まずは父とまた、オセロで勝負するところから始めてみよう・・・そう思いながら。




 せつなは気付いていなかったが、せつなとタルトが、もう少年とは呼べなくなった彼と出会うのは、それから二十四年と半年ほど後のこと。せつながまだ、まっさらな未来をその手に掴む前のことである。



~第4章・終~