たいへん! せつなが消えちゃった!? ~子供の頃のクリスマス~(転の章)




 あれから、どう走ったのか覚えていない。ただ、人目を避けたかった。誰も居ない場所に行きたかった。
 力尽きた少女は、身体を投げ出すように草むらに大の字に寝転がる。
 そこだけは、季節などまるで関係ないとでもいうように、一面の緑が広がっていた。

 少女は知らないことだが、それはシロツメクサと呼ばれる品種の野草だった。クローバーの名で親しまれ、街の名称の由来ともなっている。
 花ではなくて、むしろ葉こそが愛される、一年中枯れることのない多年草。

 少女はそのうちの何本かを乱暴に引き抜き、しばらくの間じっと見つめて――やがて投げ捨てた。
 パラパラと落ちていく、何本かのクローバー。
 呼吸の落ち着いた少女は、上体だけを起こし、膝を抱えるように座り込む。
 なんとなく――落ち着いて何かを考えるなら、小さくなった方がいいような気がしたからだった。

「メビウス様は、コンピューターだっただと? 管理国家ラビリンスは打倒されただと? そんなこと、信じられるものか……」

 逃避してきた現実に目を向ける。いや――まだ事実と認めたわけではない。
 だけど、何度否定したところで、そう考えれば辻褄の合うことばかりだった。何より、あの部屋の女が、嘘を言っているようには思えなかった。

「帰れば、わかることだ。だけど、どうすれば帰ることができる? どうやって来たのかもわからないのに……」

 そして帰ったところで、それが事実であったなら――ラビリンスにも、もう自分の居場所はないのだ。

「全てはメビウス様のために。そう思って生きてきた。それが無くなれば、わたしの命に何の意味がある……」

 答えなど、とっくに出ていた。
 ラビリンスの国民は――メビウス様のために生きて、メビウス様のために死ぬ。
 お役に立つために生まれ、お役に立てるように鍛えて、お役に立てる間だけ――生きていることを許されるのだ。

「ただ、それだけのことなのに……。なのに、なぜ私の心は――こんなにも苦しいのか?」

 思い出すのは、差し伸べてくれた少年の手。ボールを蹴って走る爽快感と、シュートが決まったときの――
 みんなの――歓声と笑顔。

「ばかばかしい。それを打ち砕いたのも、わたしではないか……」

 口に残る、芳しい香り。甘くて、まろやかな味わい。しょっぱくて、サクサクした軽やかな食感。
 お菓子と呼ばれる、効率など全く考えない、栄養価なんて無視した不思議な食料。
 生命を維持し、血液に適切な栄養を送り込み、理想的な肉体を育むための配給食とは、全く違った目的から生まれた食べ物。

「もう一度、遊びたい。もう一度、口にしてみたい。だけど――それは叶わない……」

 だって、ここは自分の世界ではないのだから――






『たいへん! せつなが消えちゃった!? ~子供の頃のクリスマス~(転の章)』






 ジャリッっと、後ろから微かな音が聞こえてきて、少女は思索を打ち切った。
 やわらかい土としなやかな草。その二つに音を殺されていることを計算に入れても、十分に軽い体重の持ち主。
 人数は一人。殺気は無し。危険性は薄いが、明確にこちらを意識して近づく者。少女はわずかに警戒しつつも、気が付いてない風を装った。

「やっぱり、ここだったのね」
「お前は?」

 まるで見知った顔のように親しげに話しかけてきたのは、桃色のゆったりとした服を着た中年の女性だった。
 故郷のラビリンスの人々のような無表情ではなく、この街で見てきた笑顔ともまた違う。柔らかい表情と雰囲気を纏う女性だった。
 言葉だけは知っている、「優しい」という表現の似合う人なのだろう。
 女性は少女の横に座り、真っ直ぐに前を見て、まるで自分に言い聞かせるように続ける。

「ラブから聞いてるわよ。あなた、せっちゃんの従姉妹なんですってね。せっちゃんは急用でラビリンスに行っちゃったから、帰るまで家で預かってほしいって」
「ラブ……あの、髪を括った女のことか? ヤツはなぜそんなデタラメを話す? わたしに従姉妹はいないし、わたしはあの女に暴力を振るったんだぞ?」

 女性は少し驚いた表情を浮かべた後、小さく微笑んだ。

「そうだったの。わたしもね、ラブが嘘を付いてることはわかってるのよ。母親だものね。それで、あなたはラブにちゃんと謝ったの?」
「なぜ、謝らなければならない?」

「悪いことをしたら、謝るものでしょ? 事情は知らないけど、暴力はいけないことよ」
「悪いことをしたら、捕らえられて処分される。謝るとはなんだ? 許しを乞うくらいなら、規律を守るか、その必要がないくらい強くなればいい」

 少女とて、謝るという概念を知らないわけではない
 ただ、少女が知る限り、「許す」という権限を持つのは全世界でメビウスただ一人だけであり、他の者に詫びる必要など見当たらなかった。
 女性は寂しそうに首を振る。

「それは違うわ。謝るということは、自分の間違いを認めて反省することよ。そして、その気持ちを相手に伝えることなの」
「許してもらえなくてもいいのか?」

「結果的に許してもらえて、仲直りできたら一番いいのだけど。謝ることの目的は、許しを得ることじゃないわ」
「それはもう聞いた。自分の間違いを反省しろと言うのだろう?」

「それもあるけど、それだけじゃないの。謝るとはね――」

 女性が、少女の顔を覗き込む。そして、穏やかな瞳で、少女の目をじっと見つめる。
 まるで、心まで見透かすように――

「謝るってのはね、自分を許すことよ」

 そう言って、女性は少女に向かって、今度こそ優しく微笑んだのだった。






 少女は言葉の意味を理解できず、かと言って問い返す気にもなれず、ただ――女性を不思議そうに見つめ返す。
 意味は自分で考えろ、とでも言うつもりだろうか?

 その人は、それ以上は何も口にしなかった。

「さあ、帰りましょう!」

 女性は立ち上がり、ごく自然な動作で少女に手を差し伸べる。少女は、その手をじっと見つめた。
 手とは、自分の身を守るための武器。必要としている物を掴み取るための手段。
 メビウス様のために奪い、メビウス様に献上するための道具。それ以外の使い道なんて、考えたこともなかった。

 でも、これで何度目だろうか? お菓子を差し出した手。ボールを差し出した手。そして、助け起こそうとする手。
 なにも、不快など抱かない。不思議と、警戒心が沸いてこない。
 心地よくて、嬉しくて――それらの手が、まるで少女の心を掴もうとしているかのようだった。

「帰るって……なんだ? 行ってやってもいいが――あそこはわたしの家じゃない」
「そうね、どうしてかしらね? なんとなく、そう言いたくなったのよ」

 少女がためらっても、女性は手を引っ込めたりせず、目をそらすこともなかった。

「名前……。まだ、お前の名前を聞いてない。わたしはイース」

 女性は、また一瞬だけ驚いた顔をした。
 そして、再び優しく微笑みかけて、自分の名前を口にした。

「わたしの名前はあゆみ。桃園あゆみよ。よろしくね、イースちゃん」

 少女は観念し、あゆみと名乗る女性の手をおずおずとつかんだ。

 その手のひらは、とてもやわらかくて……。そして、とてもあたたかかった。






 あゆみと名乗る女性は、結局、家に帰り着くまでずっと手を離さなかった。
 腕を掴まれたことなら何度かあったが、手を握られたのは初めてだった。拘束とはまるで違う、ふわふわとした不思議な感覚だった。

「着いたわよ、イースちゃん」
「知っている。初めて通る道でも、座標として覚えてるから一人でも来れた」

「すごいのね」

 そう言って、ドアを開けるためにようやくあゆみは手を離す。少女には、それがひどく惜しく感じられた。
 家の奥の方から、バタバタと駆け寄る足音が聞こえてくる。ラブという女に違いないだろう。
 あゆみが帰り際に携帯通信機で、「イースちゃんを見つけたから、先に帰っていなさい」と話していたのを聞いていた。

「せ……――ううん、イース! それに、おかあさん。おかえりなさい!」
「ただいま、ラブ」
「……った」

「えっ?」

 ラブは先ほどのことなど無かったかのように、満面の笑みを浮かべて二人を出迎える。
 少女は何かを口にしようとして、また口ごもる。
 しばらく逡巡した後、今度はハッキリと大きな声で言った。

「きっきは、手を上げて悪かった。ここが監禁するための施設じゃないことくらいはわかる。すまなかった……」
「そういう時は、ごめんなさい、でいいのよ。イースちゃん」

「ごめんなさい……」

 ラブは笑顔のまま瞳を潤ませて、そのまま少女に抱きついた。
 ちょっと苦しかったけど、とても心地よくて――しばらくの間、ずっとそうしていたのだった。






「で……これは一体なんだ?」
「これはね、折り紙って言うんだよ」

 ラブに連れて来られたのは、せつなという者が住んでいた部屋だった。その者が若返る前の自分だという話は、いま一つピンとこない。
 もちろんラビリンスの科学力をもってすれば、一時的になら可能だとは思うのだが……。
 彼女は自分の部屋から持ってきたらしい、カラフルな色紙を広げる。何度か往復して、他にもさまざまな道具を運んできた。

「それはわかってる! そう書いてあるんだから、わたしでも読める。そうじゃなくて、これで何をするのかと聞いている!」
「クリスマスツリーとか、クリスマスリースを作るの。明日は美希たんやブッキーも誘ってパーティするつもりだったんだけど、あなたを探しにみんな走り回ってて、準備遅れちゃったから」

「……いいだろう。わたしに責任があるなら、取らせてもらう。教えろ」
「うん、まずは簡単なリースからね。これは平面だから、こうやって、こう折って、それから……」

「ふんふん」
「で、これで出来上がりだよ!」

 その後も、ラブはビーズを使った飾りや、レースペーパーのオーナメントなどを次々に作っていく。
 少女の呑み込みは流石に早く、二つ目にはラブに追いつき、三つ目には追い越す有様だった。クリスマスの飾りができたら、リビングを中心に飾り付けを行う。
 それらの作業は、夕ご飯が用意できるまで数時間にも及んだ。

「それでは、召し上がれ」
「うん、いただこう」
「わは~っ、いっただきま~す!」
「いただき……ます」

 自信満々といった感じのあゆみ。料理はラブも得意らしいが、今日はクリスマスの飾り付けが忙しくて手伝えなかったとボヤいていた。
 もっとも、ほとんど全てのメニューにおいて、ラブはあゆみには敵わないらしかった。
 それ以前に少女には、料理を自分で作るという習慣がまず驚きであった。ラビリンスでは料理は機械が作るものであり、時間になると運ばれてくるものだったからだ。

「ほっちはね、デミグラスソースのハンバーグシチュー。ハンバーグはあたしが下ごしらえしたの。あれはサーモンのソテー。あっちはー」
「ラブ! 説明はいいけど、ちゃんと飲み込んでからにしなさい。お行儀が悪い」

「たはは、ごめんなさーい」

 ニコニコしながら謝るラブを、少女は不思議そうに見つめる。叱られているのに、どうして笑っていられるのだろうか?
 あゆみも、本気で怒っているわけではなさそうだった。やっぱり嬉しそうにしていた。
 これも、自分の故郷では考えられないことだった。失敗は即、自分の生死に関わる。メビウスに必要ないと判断されてしまったら、そこでその者の命は終わるのだ。

「イースちゃんも、遠慮せずにどんどん食べてね。口に合わなかったら、味付けし直すから言ってね」
「ううん……どれも美味しい。こんな料理は食べたことがない」

「こんなので驚いてたら、明日はビックリするよ。クリスマスパーティーの食事はもっと豪勢なんだから!」
「こんなので悪かったわね、ラブ?」

「たはは、失言でした……」

 ラブはまた、ごめんなさいと言って楽しそうに笑う。自分を気遣いながら見せる笑顔に、チクリと胸が痛んだ。
 その理由もわからないまま、なぜか不安だけが募っていく。少女は話題を変えることにした。

「クリスマスパーティーと言ったな? さっきから何度も聞いたが、クリスマスとはなんだ?」
「まあ、ラブったら、そんなことも教えずにお手伝いさせてたの?」

「あっ、ごめんね。クリスマスってのは――」

 白いトリミングのある赤い服を着て、先の尖った赤いキャップを被っている、長い白髪と白いヒゲをたくわえた笑顔の老人。クリスマスの前の夜に、良い子の元へプレゼントを持って訪れるとされている伝説の人物。
 しかし、容姿は必ずしもこの通りではなく、大男だったり、女性だったりすることもあるらしい。ソリを引くトナカイも、一匹だったり、九匹だったりとバラバラだ。
 たかがパラレルの一つと言えど、世界は広い。あるいは複数のサンタクロースが存在するのかもしれなかった。

「この世界には、そんな者が居るのか……」

 天空を駆け、世界中を巡り、子供にプレゼントを配る謎の人物。そんな者が本当に存在するなら、自分の願いも叶えてもらえるかもしれない。
 そして、少女には既に心当たりがあった。

「今日の昼間、それらしき男と会った。サンタクロースかどうかはわからないが、間違いなく只者ではなかった」
「ええ~っ! だって、サンタは!」
「ラブッ!」

「あっ、その、どこで会ったの?」
「この家の前の大通りの、お菓子を置いてある店の前だ。ヤツならば、どんな力を隠していても不思議じゃない」

「それはどこかのアルバイト――アイタタタ。いや、サンタクロースがイースちゃんをよく知ろうと、見てたのかもしれないね」

 圭太郎という、この家の主が口を挟む。なぜか顔を真っ赤にして咳払いしていた。

「わたしを知る? そうか、いい子じゃなければサンタクロースは現れないんだったな。だったら、わたしは不合格だろう……」
「そんなことないよっ!」
「そんなことないわ、イースちゃん。必ず、サンタクロースはあなたの元にやってくるから」
「そうだな、僕もそう思う」

「それは――楽しみだ」

 少女は、年齢にあるまじき大人びた笑みを浮かべる。それは、あきらかに何かを企んでいる顔だった。