たいへん! せつなが消えちゃった!? ~子供の頃のクリスマス~(承の章)




 少女の顔立ちに宿る、確かな面影。そして何より、見覚えのある、大きすぎて裾の余ったぶかぶかのお洋服。
 その女の子は……確かにラブの親友で、仲間で、家族でもある、“東せつな”その人であった。

「せつな……だよね? どうしちゃったの? まさかっ!」
「黙れっ! 違うと言ったはずだ!」

 少女は、苛立ったように睨みつけながら吐き捨てる。その様子も、まるで子供の癇癪のようで可愛いのだが、やっぱりラブにはそう感じる余裕はなかった。

「ううん、せつなだよ! 聞いて、あなたは――」
「こぼれてる」

 少女は、床の一点を指差す。その先には、ラグカーペットの上に落ちて、中身の飛び散ったハーブーティーのカップがあった。

「えっ?」
「お茶を持ってきたのだろう? そんなザマで、メビウス様のお役に立てるものか!」

「あっ、ゴメン! せつなのカーペット、染みになっちゃう」

 ラブは慌てて何か拭く物を探す。ハーブティーは色が薄く、目立つ染みになるとは思えない。それでも、せつながどれほど部屋の物を大切にしていたかを思うと、僅かでも汚したくはなかった。
 背に腹は変えられない。少し迷ってから、持ってきていたお手ふきで拭くことにした。しゃがみこんで、ゴシゴシとカーペットをこする。
 その背後に、少女が素早く回りこんだ。

「きゃっ! せつな!? 何をするの?」
「動くな! 抵抗すれば、このまま首の骨を折る!」

 少女の細い腕が、ラブの首に食い込んでいた。ゴホッ、ゴホッ、とラブが咽たので、少しだけ力が緩められる。

「離して! せつな、どうしちゃったの?」
「どうしただと? それはこちらのセリフだ! ここはどこだ? いつ、どうやってわたしをさらってきた?」

 ラブは少女の腕を掴み、力いっぱい引き剥がそうとする。しかし、両手を使っているにも関わらず、片手で拘束している少女の腕はビクともしなかった。
 腕の太さだって、ラブの半分ほどしかないのに。

「せつなは……さらってきたんじゃない。ここがあなたの家なの」
「その名で呼ぶのはやめろ、わたしの名前はイースだ。これ以上たばかる気なら、本当に――」

「やれば、いいよ」
「なにっ!?」

 ラブは抵抗を止めて、身体の力を抜く。反動で少女の腕はラブの首に深く食い込み、ラブは更に咽る。
 そのまま激しく咳き込みそうになるのを、グッと堪えた。

「お前は、命が惜しくないのか?」
「せつなはあたしを――ううん、誰だろうと、人を傷つけることなんてできないよ」

「メビウス様のためなら、できる!」
「もう、メビウスはいないよっ!」

「貴様っ!」

 少女の声に怒気が篭る。ラブはこの先に与えられる苦痛を覚悟して、目を閉じて歯を食いしばる。
 しかし、少女の腕に再び力が込められることはなかった。

「せつな?」
「全部――話せ。嘘かどうかは、わたしが判断する」

 ラブは少女に拘束されたまま、これまでの出来事をかいつまんで話していく。
 その格好は、ちょうどお姉さんが妹をおんぶしているような体勢であり、見る人が居ればきっと微笑ましく映ったことだろう。
 もっとも、本人たちはいたって真剣であった。

「馬鹿な……。メビウス様がコンピューターだっただと? しかも、裏切ったわたしが倒したというのか? そんなこと、信じられるものか!」
「ラビリンスの人たちを裏切っていたのは、メビウスの方だよ! せつなはラビリンスを救って、みんなを開放したの」

「――嘘だっ! 全部でたらめだっ!」
「ゴメン――酷いこと言ってるのはわかってる。今のせつなは子供なのに……。でも、こんな大切なことで嘘なんて付けないよ!」

 それから先、しばらくの間、二人とも一言も口をきかなかった。部屋の中を、重苦しい沈黙が支配する。
 やがて少女の腕が緩み、ラブの拘束が解かれる。

「せつな……」
「もういい、眠れ」

 トンッと、少女の手刀が、振り向いたラブの正面の首筋に命中する。
 軽く、当たっただけだった。痛みも、衝撃すらも感じないまま、ラブは崩れ落ちるようにその場に突っ伏した。






『たいへん! せつなが消えちゃった!? ~子供の頃のクリスマス~(承の章)』






 紺色のジャケットが、まるでコートのように腰にまで届く。太ももが露出するはずのプリーツスカートは、セミロングのように膝小僧までを覆い隠す。
 ベルトと靴の紐をキツく絞る。ダブダブの赤いシャツは、裾を幾重にも折り畳み、余った丈は腰の辺りでクルッと結んだ。
 それでやっと自由に動けるようになった少女は、クローバータウンストリートの商店街を練り歩く。

「目障りで、耳障りだ……。どうして、こんなに騒々しい」

 街はクリスマスに浮かれ、大勢の人通りで賑わっていた。商店街では至る所からクリスマスソングが流れ、客引きの大声が飛び交う。
 街路樹には、華やかなイルミネーションが輝き、店先は色鮮やかな装飾で飾り付けられていた。
 それ以上に少女を戸惑わせたのは、周囲の人々の表情だった。

 人数としては、大したことはない。この何倍、何十倍、何百倍もの人間を見たことがある。
 だけど、ラビリンスの人々はみんな無表情で、それが当たり前だと思っていた。ある程度なりとも感情を表すことが許されているのは、幹部級の人間だけだったからだ。
 街もそう。もっと大きな建物ならいくらでもあった。だけど、これほど無秩序で、色彩に富んで、華やかな建築物など見たことがなかった。
 音も同じ。メビウス様のお話なら、もっと音量は大きかった。だけど、このような意味の無い音のつながりは何だ? 呪文のように繰り返される声にどんな意味がある?

「苛立たしい……」

 少女は徐々に怒りを溜めていく。しかし、試してみたが、どういうわけかスイッチ・オーバーを使うことはできなかった。
 いや、先ほどの女の説明を聞く限り、理由は明白だったのだが、それは認めるわけにはいかなかった。
 この身体のままでは、そこいらの脆弱な人間よりはマシだとしても、この人数を相手に暴れて勝ち目はない。
 仕方なく耳を塞いで、視線を下に落としながら、少女はあてもなく歩き続ける。やがて、今度は嗅覚が反応した。嗅いだことのない不思議な匂い。それは、確かに食べ物の匂いだった。

 食料の置いてある建物なら、いくつか通り過ぎてきた。だけど、そこから薫る微かな匂いは、これまで一度も体験したことのないものだった。
 ちょうどお腹が空いていたこともあって、少女はフラフラと匂いのする方向に引き寄せられていく。すると古ぼけた小屋の奥から、しわがれた老婆が出てきて声をかけた。

「おや、いらっしゃい」
「ここは何だ?」

「何だとはなんだい。口の利き方の知らない子供だね。だけど、見たことがある気がするね。どこから来たんだい?」
「聞いているのはこちらだ。これは何だ?」

「ふん、それはチョコレートってんだよ。あんた食べたことないのかい?」
「知らない」

「なら食べてみな、幸せになれる味さね。お金がないのなら」

 老婆が最後まで話すのも聞かず、少女はその板状のお菓子を掴んで、背を向けて走り去った。

「お待ち! 飛び出しちゃ危ないよ! そんなことしなくても」

 老婆がモタモタと追いかける。しかし、少女の足には到底追いつくはずもない――いや、追いつかないはずだった。
 逃走しようとする少女の前に、いかつい制服姿の男が立ちはだかる。じわじわと距離を縮め、少女を取り押さえようとしていた。

「そこの女の子、止りなさい。何を持っているんだね? それにその格好は?」
「どけ! 邪魔をするな!」

「……大人しくしなさい。ちょっと署まで来てもらうよ」
「忠告――したぞ!」

 少女は自分を捕らえようとする腕をかいくぐり、相手の懐に飛び込む。そのまま勢いを殺さず、軸足の重心を切り替えて男の足を蹴り飛ばした。
 足を払われた形になった男は、尻餅を付いて地面に倒れこむ。そこに、追撃――少女の拳が相手の胸を打つべく迫っていた。

「とどめだ!」
「ひぃ!」

 パァァ――ン

 とても、子供が放ったとは思えない強力な一撃は、横から割り込んできた人物によって受け止められる。
 少女の攻撃を阻んだのは、真っ赤な服を着た男だった。
 先の尖ったキャップを被り、そこから長い白髪が伸びている。口元には白いヒゲがたくわえられていた。
 その男は、正面から受け止めたのではなかった。片手を真っ直ぐ差し出して、掌で受けたのだ。
 それでいながら――これほどの音を立てる威力の拳を受け止めていながら、その腕はまるで微動だにしていなかった。

「サンタクロース? 売り子の方ですか? ご協力感謝します」
「…………」

 赤い服の男は答えない。それを不気味に思い、少女は一歩後ずさった。
 別に、制服の男は恐れるに足らない。だが、横から割り込んできた、このサンタクロースと呼ばれる男は危険だった。
 直線の最短距離を走る突きを、「線の動き」で払うのではなく、「点の動き」で受け止めたのだ。それは、少女を遥かに超えた戦闘能力の持ち主であることを示していた。

「さあ、君、大人しく来るんだ」
「くっ……」

「お待ち!」

 少女が、声のした方向を振り返る。そこには先ほどの老婆が立っていた。手に、たくさんお菓子が詰まった袋を持って。

「離しておやり。その子は知り合いの子でね、何か粗相があったならあたしが謝るよ」
「はっ! いえ、子供のしたことですし、身元を保証していただけるのであれば……」

「これを持ってお行き。あんまり親に心配かけるんじゃないよ?」

 老婆は、制服の男――警察官には答えず、少女に手にした袋を渡す。少女は周囲を警戒しつつ、それをふんだくるように受け取った。
 お礼も言わないまま、少女は背を向けて走り出す。サンタクロースは、いつの間にか姿を消していた。
 警察官は一瞬どうしようか迷ったようだったが、人ごみを掻き分けて走り去った少女を今から追ったところで、到底捕らえられるとは思えなかった。






 人ごみに疲れた少女は、休憩できる場所を探して広場に来ていた。木陰に座り、奪ってきた――ことにした、お菓子を口に運ぶ。

「甘い……。こっちは、しょっぱい。そして――美味しい……」

 空腹だったせいだろうか? 知らない場所で、緊張していたせいだろうか? いや、きっと美味しすぎるせいなのだろう。
 少女はお菓子をパクパクと口に運び、あっという間に食べ尽くしてしまった。

 目の前では、数人の少年が歓声をあげながら、まだら模様のボールを蹴っていた。
 歳は、少女と大して変わらないだろう。楽しげに球を奪い合う彼らには、まるで真剣さがなく、それが訓練の類ではないことが容易に想像できた。

「くだらない……。愚かで、ばかばかしく、意味のない行為だ」

 まるで自分に言い聞かせるように、少女は小さく口にする。何度も、何度も、口にする。
 でも、なぜか目はボールの動きを追っていて――

 ポン、ポン、ポン、

 少女の目の前に、まだら模様のボールが転がってくる。反射的に手を伸ばそうとして、すぐに引っ込めた。
 自分に命中したわけではない。報復する必要はない。
 かと言って、わざわざ取って渡してやる義理もない。

(すぐに取りに来る。だけど、ちょっと触るくらいなら……)

 結局、手に取ることにした。ボールは思ったよりも重くて、固くて、しっかりとしていた。
 これなら、自分が本気で蹴っても壊れないかもしれない。

 ふと、そんな思いが胸を掠めて、少女は愕然とする。

(うらやましいというのか? あんな、くだらない遊びが……)

「ねえ、君っ! ボール取ってくれてありがとう!」

 ボールを手にして考え込んでいる間に、少年の一人が取りに来ていた。
 おめでたいと思う。自分は返すなどとは、一言も口にしてないというのに……。

「ありがとう!」

 結局、少女は黙ってボールを差し出した。自分を信頼しきった瞳が曇るのを、なんだか見たくなかったからだ。
 しかし、少年はすぐに立ち去ろうとはせずに、じっと少女の様子をうかがった。

「ねえ!」
「なんだ! まだ何か用があるのか?」

「よかったら、一緒にサッカーやらない?」
「わたしが――一緒に?」

「うん。さっきから、ずっとこっち見てたでしょ? 僕たちもちょうど一人足りなかったし」
「ルールを、知らない……」

 それは、少女の精一杯の抵抗だった。さっきから、何十分も観ているのだ。
 それだけで、この聡明な少女は、それがどのような遊びか。何が許されて、何が許されないのか。どうすれば勝ちなのか。ほぼ完全に把握していたのだった。

「女の子だもん、しょうがないよ。おいおい教えるからさ、まずはやってみようよ。僕の名前はタケシっていうんだ。君は?」
「イース……」

「イースって……あの? まさかね、歳が全然違うもん。外国の人みたいな名前だね。じゃ行こう、イース!」
「うん……」

 二人は、他の四名と合流する。「女で大丈夫かよ?」「スカートはまずいんじゃないか?」などと口にする者もいたが、なぜか少女は腹が立たなかった。そのどれもが、少女を心配しての発言だったからだろうか?
 少女は、「ハンデにちょうどいい」と言って、挑発的なセリフで彼らを煽った。もっともそれは、謙虚なまでに控え目に伝えた事実でもあった。

 三対三のゲームが始まる。フットサルではなくミニサッカーと呼ばれるもので、十一人形式と同じルールで行われるらしい。もっとも、これしか知らない少女にはどうでもいいことだった。
 四角い形に、マーカーで線を引いただけの簡単なフィールドが作られる。十メートル四方のそれは、グリッドというらしかった。
 少女は、まずはディフェンスから。相手チームの二人は、三角を描くようなパス回しで攻めて来る。
 ドリブルもパス回しも十分にスピードがあり、頻繁に遊んでいることが見てとれた。少女とて、見学も無しで参加すれば、その動きに付いていけなかったかもしれない。
 しかし、少女は既に、各人の動きのクセや、パターンや、利き足までも把握していた。シュートの手前のパスを、あっさりとインターセプトする。

「ウソだろっ!?」
「いつの間に回りこんで来てたんだ!」

 急停止と急加速。少女は、格闘術の応用で重心を自在に操り、右に左に、変幻自在なドリブルでゴールに迫る。
 そして、シュート!
 そこで、少女に心理的ブレーキがかかる。

(本気で蹴ったら、ボールが壊れてしまうかもしれない。それに、この者たちに怪我をさせるかもしれない)

 その迷いの一瞬の隙を突かれて、ボールを奪われてしまう。
 仲間のガッカリした声と、敵側の安堵の声。少女はすぐに我に返り、再びボールを取り戻しに走る。

(今――わたしは何を考えていた? 仲間? ばかばかしい……。だけど――)

 ゲームは完全に少女が支配していた。ラビリンスの、命がけの訓練で鍛え上げた運動能力と、幹部候補として培った空間把握能力。
 誰も真似のできない動きでボールをキープしつつ、まるで上空に目があるかのように、敵味方の位置と動きを把握する。

「せめて一点くらいは返そうぜ! 食らえ!」
「そうは、させないっ!」

 いつの間にかディフェンスに回り込んでいた少女が、相手のシュートを胸で受け止める。
 ボールは少女の身体に触れた瞬間に威力を失い、ストンとその足元に落ちた。

「ウソだろ? あれって、クッションコントロール?」
「シュートを真下に落とすって、すげえ高等技術じゃないか……」

「上がれっ!」

 少女の指示によるカウンターアタック。それは、上に立つ者としての適性の表れだろうか。
 いつの間にか、攻撃の組み立て、即ちビルドアップすらも自分の物にしていた。

 少女のキラーパスが、ディフェンスの股の間を抜いて味方に届く。絶妙なパスで、キレイにゴールが決まった。

「またやられた! ダメだ、これじゃあ、勝負にならねえよ!」
「なら、メンバー組みなおそうぜ。今度は、こっちがイースをもらうからな!」

 いつの間にか、少女の奪い合いになっていた。少女は今度は、敵だった者と仲間になって、一緒に走り、一緒になって戦った。
 五人全員が、なんだか大切な存在に感じられて――

「イース! そのまま打て!」

 パスするつもりだった味方が叫ぶ。これまで、少女は一度もシュートを打たなかった。そこで相手は、組しやすい他のメンバーを徹底的にマークすることで、少女の居るチームの得点を防いでいたのだ。
 少女もまた、自分で打ってみたい欲求に耐え切れなくなっていた。もともとが勝気な性格でもあった。

(キーパーの居ない方向に打てば……)

 少女は力いっぱいに蹴り足を振りぬく。サッカーボールは激しい勢いで飛んで行き――

 これまでは、主にパスしか打っていなかった。五分以下の力だからこそ、完全なコントロールができていた。
 しかし、いかな少女とて、今日始めたばかりの球技で、まして生まれて初めて打つシュートで、全力の球を狙い通りコースに決めることなどできるはずもなくて――

「うわっ! …………」

 そのボールは狙いを外れ、キーパーのタケシの正面に打ち込まれる。突き出した彼の両手のガードを貫き、顔面をも弾いてゴールに吸い込まれていった。

「おいっ! 大丈夫かよ?」
「すっげえ鼻血出てる。誰かティッシュ持ってない?」
「指が痛いってよ、突き指したんじゃないか?」
「まずいよ、病院連れてった方がいいと思う。俺、大人の人呼んでくる!」

 全員が、負傷した少年を取り囲む。少女はその中には入って行けず、青ざめた顔のまましばらく立ちすくんで――
 やがて、逃走するように背を向けて走り去った。



最終更新:2016年12月25日 11:25