幸せは、赤き瞳の中に ( 第7話:瞳の中の炎 )




 少女にぐいっと腕を引っ張られたと思った瞬間、ラブは見覚えの無い、狭いトンネルのような場所に立っていた。
 振り返っても何も見えず、前を向くと、先を歩く少女の姿がかろうじて見えるだけのほの暗い場所。
 慌てて彼女の背中を追いかける。程なくして急に視界が開け、二人は大きな建物の前に出た。

「ここはどこ? 何のための建物なの?」
「軍事養成施設・E棟。歴代のイースが生まれ育った場所よ。今は政府によって封鎖されているけど」
「え……じゃあ、せつなもここで!?」
 少女の言葉に、ラブは目を見開いてから、改めて目の前の建物をしげしげと見つめる。

 大きな扉を中心に、左右に広がる黒々とした壁。その造りだけを見ると、どことなく占い館に似た佇まい。だがこの建物は周囲を高い塀で囲まれていて、森の中にあった占い館とは、受ける印象が随分違う。
 より無機質で、硬質で、他を寄せ付けない堅固な要塞のような雰囲気が感じられる場所――。
 少女の方は、そんなラブの様子には目もくれず、中央の重そうな扉に向かって、さっと右手を翳した。

 ギィ、という音を立ててゆっくりと扉が開く。
「開いた……。自動ドア?」
「いや、私が開けた。データを読み込ませてね」
 面白くもなさそうな声でそう言って、少女が無造作に建物に足を踏み入れる。慌てて続くラブの後ろで、大きな音を立てて扉が閉まった。

 入ったところはホールのような、だだっ広い場所だった。壁も床も、全てがグレー一色。その中でまず目に入ったのが、左右に伸びる長い階段だ。色合いやデザインは大きく異なるが、造り自体は、やはりどことなく占い館を思わせる。ラブは不思議な懐かしさを感じながら、階段の中程に目をやった。

(確かあの辺りに、せつなが立ってたんだよね。急に声を掛けられて、びっくりしたっけ……)

 初めて会った時のせつなの動きを目で追うように、ゆっくりと視線を動かす。が、少女は階段まで歩を進めると、ラブの視線とは逆の、地下へ伸びる階段の方へと足を向けた。
 少女に続いて、ラブも階段を下りる。そして地下の部屋にあるものを目にした途端、さっきまでの感傷は一辺に吹き飛んだ。

 一階と同じくグレーの壁に覆われた、薄暗い一室。その真ん中に置かれていたのは、天井まで伸びた透明な円柱状のゲージだった。かつて占い館で見たものほど大きくはないが、一人ではとても抱えきれない太さの筒の中に、濁った液体がラブの膝の高さくらいまで溜まっている。

「これって……まさか!」
 ラブが声を震わせた、その時。
「あら? 珍しい顔ねぇ。あなたがここに居るということは、その子の言うことも、あながち間違いでもなさそうね」
 どこかから妖艶な声が響いて、ラブは再び目を見張った。

 ゲージの前に突如、大柄な女性が現れる。腰まで伸びた濡れ羽色の髪。鮮血のように真っ赤な唇。そして相手を射すくめるような、鋭い眼光――。
「……ノーザ! どうして!?」
 思わず大声を上げてから、ラブはごしごしと目をこすった。ノーザの姿が、何だか透明がかっているように見えたからだ。それどころか、よく見るとその体の向こうに、後ろのゲージがぼんやりと透けて見えている。
 ノーザの姿は実体を伴ったものではなく、ただの映像のようだった。どうやらゲージの前に置かれた、まるで枯れ木のように見える小さな植木の枝先から投影されているらしい。

「あなた、本当にノーザなの? ホンモノはどこにいるの? このゲージは何? もう一度、不幸を溜めるつもりなの? 何のために!?」
「相変わらずうるさいわねぇ。少しお黙りなさいな」
 ノーザがそう言うと同時に別の枝がしなやかに伸び、蔦となってラブに襲いかかった。
 少女がラブの前に飛び出すと、手首を軽く返しただけで蔦を弾いた。ラブのすぐ横の壁が蔦の一撃を喰らって、その表面の一部がボロリと崩れ落ちる。
 目をパチパチさせるラブに一瞬だけ鋭い視線を送ってから、少女は真っ直ぐノーザの映像に向き合った。

「お手柔らかに。相手は生身の人間ですよ?」
「あら、ごめんなさい。それにしても、プリキュアを人質に取るなんて、なかなかやるじゃないの。こうしておけば、裏切り者の幹部たちも迂闊に手が出せないというわけね」
「……」
 少女はそれには答えず、ラブを制して自分の後ろに下がらせる。

「それで、ゲージの上がり具合は?」
「見ての通りよ。初めてにしては上出来だわ。それにしても、このラビリンスで不幸を集められるようになるなんてねぇ」
「それだけ、今のラビリンスが愚かな世界になったということ。メビウス様の統治が素晴らしかったという証拠です」
 そう言いながら、少女は今にもノーザの前に飛び出しそうなラブの二の腕を掴んで離さない。その様子を見て、ノーザは口の端を斜めに上げてニヤリと笑った。

「そうねぇ。でも、ウエスター君にあなたの姿を見られたのだけは、失敗だったわね」
「このダイヤを使ったナケワメーケならば、ヤツらが生み出すモンスターでも倒せない――おっしゃる通りなのは確認しました。ならば問題ないはずでは? それに、いざとなればさっきのように時空を開いて頂ければ……」
「こと戦闘にかけては、あまり彼を舐めると痛い目に遭うわよ? 姿を見られた以上、さっき時空を開いたのが最後の一回だと思いなさい。多用すれば、私の存在を奴らに察知される恐れがある。それだけは避けたい――わかるわよね?」
「じゃあ、どうしろと?」

 少女の言葉が終わるより早く、何かがシュッと部屋の中を横切った。と同時に、少女の手に握られていた暗紫色のダイヤが魔法のように消え失せる。
 さっきとは比べ物にならない速さと鋭さだった。気付いた時には一本の蔦が、絡めとったダイヤをまるで捧げもののように、ノーザの前に高々と掲げていた。

「っ……何を!」
 思わず声を荒げる少女をさらに威圧するように、ノーザが重々しい声を出す。
「あなたには二、三日休暇をあげる。後でちゃんと花を持たせてあげるから、しばらくは私に任せなさい」
「ノーザさんに? ですが、そんなこと……」
「あら、出来ないとでも思ってるの? 姿を隠したままでも、あなたの三倍、いや五倍は働いてあげるわ」
 フフフ……と楽し気に笑うノーザに、少女が少し悔しそうに下を向く。その隙をついて、ラブが少女の腕を振りほどき、ようやくノーザの前に躍り出た。
「お願い。これ以上、ラビリンスの人たちを不幸にしないで! みんな、今ようやく幸せゲットしようって、頑張り始めたところなんだよ。だから……」
「聞き分けのない子ねぇ。お前の出る幕じゃないって、何度言ったら分かるのかしら?」

 ノーザがそう言うが早いか、さっきよりはるかに太い蔦が、ラブを目がけて唸りを上げる。
 今度はとても弾けない――そう判断したのか、少女は咄嗟に覆い被さるようにしてラブを庇った。蔦はそのまま少女とラブの身体を絡めとると、二人を部屋の外へと放り出した。
「そうそう。まさかとは思うけど、ここが奴らに見つかったりしていないか、ちゃんと確認しておきなさい。頼んだわよ」
 ノーザのその声を最後に、部屋のドアはバタンと閉まった。

 跳ね起きたラブがドアに駆け寄る。だが鍵がかけられたのか、どんなにノブを回してもドアはびくとも動かない。
「ふん、全く懲りないわね」
 少女は腰に手を当てて呆れたように呟くと、すぐに元来た階段の方へと向かった。仕方なくその後に続きながら、ラブはもう一度閉じられたドアを振り返って、不安そうに胸の前でギュッと両手を組み合わせた。



   幸せは、赤き瞳の中に ( 第7話:瞳の中の炎 )



 どこからか、タン、という小さな音が断続的に聞こえてくる。それをぼんやりと聞きながら、ラブは目を覚ました。
 ここへ来て二日目の朝。ラブの寝室としてあてがわれた部屋は、同じ形と大きさの部屋がずらりと並ぶ、居住エリアにある一室だ。
 普段寝ている畳のベッドより一回り大きなベッドから降りて、まずは分厚いカーテンを開ける。窓の向こうに見えるのは、こちらもグレー一色の、高い塀だった。
 見上げると、四角く切り取られた空が小さく見える。青というより、塀の色より少し淡いグレーといった色合いの空からは、今の季節の四つ葉町よりずいぶん柔らかな、朝の光が差し込んでいた。

(せつなも見ていたのかな、こんな景色……)

 うーん、と大きく伸びをしてから、くるりと窓に背を向け、改めて部屋の中に目をやる。
 大きさだけは立派だが、あまりにもシンプルなベッドと机、それにクローゼットだったらしい細長い物入れがひとつ。封鎖されている建物だからこんなに殺風景なのか、それとも元々こんな部屋だったのだろうか。
 閑散とした部屋の中に、親友の姿を思い浮かべようとして――しかし、思い浮かんだのは昨日の出来事だった。

 再び目にした不幸のゲージと、まさか再会するとは夢にも思っていなかったノーザの姿。黒雲のような不安が広がりそうになる胸を、ギュッと両手を組み合わせて抑える。

――どうしても私を止めたいと言うのなら、一緒に来い。私がすることを見届ければいい。

 そう言って不敵に笑って見せた少女の瞳に、親友の――せつなの哀し気な瞳が重なって見えた。
 だからどうしても、彼女を止めたいと思った。でも……。

(あの子は一体、何をするつもりなんだろう……)

 昨日、ノーザに地下室から放り出された後、少女は真っ直ぐこの棟のコントロール・ルームに向かった。ラブはそんな少女を追いかけて、ノーザの言いつけ通り外部モニターのチェックを始めた彼女に、質問を浴びせかけたのだ。

「ねえ。あそこにノーザの姿が映っていたということは、ノーザがどこかに居るってことでしょう? どこに居るの?」
「今に分かるわ」
「部屋の真ん中にあったのって、“不幸のゲージ”だよね?」
「ええ」
「やっぱり。またナケワメーケで不幸を集めて、一体何をするつもりなの?」
「それもゲージが溜まったらすぐに見せてあげるわ。そう先のことじゃない」

 ここへ来る前よりは幾分柔らかな口調ながら、モニターから目を離さず、今に分かる、の一点張りの少女。

「じゃあ今は……何も教えてくれないの?」
「これでも随分と手の内を明かしているつもりよ。何と言ってもアジトに連れて来たんだから」
 不満そうに問いかけたラブに、初めてチラリと視線を向けて、彼女はそう言ったのだが。

(そう言われたって……これだけじゃ、何も分からないよ)

 はぁっと溜息をついた時、また部屋の外から、タン、という微かな音が聞こえた。

(何の音だろう……)

 廊下に出てきょろきょろと辺りを見回してから、向かいの部屋を覗いてみる。そこを自分が使うから、監視がしやすいように必ず部屋のドアを開けておけと、昨夜、少女に言われていたのを思い出したのだ。
 ラブの部屋だけでなく、少女の部屋のドアも開いていたが、部屋はもぬけの殻だった。寝具はきちんと畳まれていて、シーツに残ったわずかな皺だけが、そのベッドが使われたことを示している。
 誰も居ない廊下に、一人佇むラブ。やがてその瞳が、わずかに輝きを増した。

(……そうだよね。せっかく、せつなとあの子が育った場所に連れて来てもらったんだもの。ここでの暮らしのこと、そしてあの子のことをもっともっと知れば、もっとちゃんと話をすることだって出来るよね)

 おそらく少女は、あの音がしている場所に居るのだろう。ラブは耳を澄ませると、音のする方に向かって歩き出した。
 歩いては立ち止まり、また歩いては立ち止まりしながら、時折聞こえる音を頼りに少しずつ歩を進める。音は少しずつ大きくなり、それにつれてラブの足も少しずつ速まっていく。
 居住エリアを抜けた先には長い廊下が伸びていて、そのさらに先に、この建物の中でも特に重厚そうに見える大きな扉があった。
 物音は、どうやらこの扉の向こうから聞こえてくるようだ。何の音かは定かではないが、何かを叩き付けるような鋭い音――。

(まさか、またノーザがいるわけじゃないよ……ね)

 ラブはゴクリと唾を飲み込んでから、意を決してその重い扉を開いた。
 そこにはひときわ明るい照明の下、等間隔に立つ太い柱とグレーの床に囲まれた広大なスペースが広がっていて、その一角で一人飛ぶように動いている少女の姿があった。時折、タン! と床を蹴りつける音がひときわ大きく響く。さっきからラブが耳にしていたのは、どうやらこの音だったらしい。

(ここって道場……なのかな。おもちゃの国のカンフー道場より、何倍も広い……)

 とりあえずノーザでなかったことに少しホッとして、そろりと扉を閉める。
「危ないから、近くに寄らないで」
 少女はラブの方を見もせずにそう言うと、一旦動きを止めて、ふーっと長く静かに息を吐いた。

 少女の訓練が再開される。空手ならば“型”、拳法ならば“套路”と呼ばれているもの。正しい動作を無意識に出せるようにするための訓練方法だ。しかしその動きは、ラブの目にはまるで舞のように映った。
 見えない相手に向かって、多彩な技を連続して繰り出すような動き。複雑な動きなのに、そこには一切の迷いも無駄もない。
 強く、鋭く、速く、しかも滑らかで、ダンスのように美しく――。
 息を詰めてその動きを見つめていたラブは、ふと不思議な既視感を覚えて、その正体に目を見張った。

(この動きって、せつなの……ううん、パッションの動きによく似てる!)

 が、そう思ったのはほんの束の間だった。すぐにまた少女の動きに引き込まれて、その一挙手一投足を食い入るように見つめる。
 しばらくの間、その変幻自在で華麗な舞を披露してから、最後にもう一度、ふーっと長く息を吐いて、少女の訓練は終わった。

 パチパチパチ……という音が訓練場に大きく響き、少女が驚いた顔で振り返る。
 おそらくこの訓練場で、この音が発せられたのは初めてのことだったろう。それは、ラブが少女に対して、思い切り手を叩いて絶賛を贈った音だった。

「それって……一体、何の合図なの?」
「ああ、これ? 拍手だよ。合図じゃなくて、凄いっていう感動を伝えるものなの」
 ラブが手を下ろし、代わりに興奮気味な様子で少女に近付く。
「ホント凄いね! 動き速いし、力強いし、何よりすっごく綺麗!」
「……別に、そんなこと……」
 一瞬ぽかんと首を傾げた少女が、ラブの賛辞を聞いてさりげなくあさっての方を向いた。その顔は、訓練が終わった直後よりも心なしか上気しているように見える。

「そんな風に動けるようになるには、毎日ものすごく練習したんでしょ?」
「そりゃあ……訓練は毎日だった」
「凄いなぁ。何歳くらいから訓練を始めたの?」
「さぁ。物心ついた頃には、既に生活の一部だったわ」
「……そうなんだ。そんな小さい頃から、ずっと頑張って来たんだね」
「そうしないと、ここには居られなかったから」
 キラキラした目で問いかけていたラブが、その一言を聞いて、え、と言葉を途切れさせる。反対に少女の方は、おもむろに顔を上げてラブを見据えた。

 少女が胸の前のダイヤのような飾りに手をやると、黒い衣装が消え失せて、彼女の服装は初めて会った時と同じ、ラビリンスの国民服に変わった。
 そうしておいて、少女がラブの方に右手を差し伸べた。掌を上にしてクイッと手招きして見せながら、挑戦的な笑みを浮かべる。

「ちょうどいいわ、一本付き合って。プリキュアを務めたあなたの手並み、是非拝見したい」
「えぇっ!? む、無理だよぉ。今はあたし、プリキュアにはなれないもの」
「プリキュアじゃなくて、生身のあなたと手合せしたいの。だから私も、戦闘服を解除したでしょう?」
「いや、だから、そうじゃなくて……」
「来ないなら、こっちから行くわ!」
「ええっ!? ちょ、ちょっと待って!」

 次の瞬間、少女の拳がラブを襲った。慌ててよけると、すぐに次の一撃が追いかけてくる。
「わ、わ、わ……うわっ!」
 必死で後ずさりながら三つのパンチを避けたところで、ラブが足をもつれさせて勢いよく転倒した。痛てて……と言いながら起き上がろうとするラブを、少女は腰に手を当てて、やけに真剣な顔つきで見下ろした。

「はあ、びっくりしたぁ……」
「最大限に手加減しても、その程度なの? 会った時から思っていたけど……やっぱりあなた、プリキュアにならなければ何の力も無いのね」
「うん、プリキュアの力はね、変身して初めて出せるもので、あたし自身が持っている力じゃないんだ」
 そう言ってふらふらと立ち上がるラブを見ながら、少女がごく小さな声で呟く。
「一体、何故? メビウス様が、こんなヤツに……」
「へ?」
 何か言った? と問いかけようとしたラブが、少女の顔を見て、思わず口をつぐんだ。

 ラブを見つめる赤い瞳が、言葉よりも遥かに雄弁に、彼女の心を物語っている。
 怒り。憎しみ。そして――哀しみ。瞳に宿る激しい想いが燃え盛る炎となって、ラブの心をチリチリと焦がす。
 ラブにとっては長い時間。だが実際には、ほんの数秒のこと。
 少女は目を伏せるとくるりと踵を返し、黙って道場を後にした。
 バタン、と扉が閉まる音が背後から聞こえる。ラブは一歩も動けぬまま、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。



 棟の備蓄品としてまだ残されていたという非常食を、二人で朝食として食べてから、ラブは少女に、建物の中を案内してほしいと頼んだ。
 さっき少女の瞳に宿る炎を見てから、ラブはますますこの場所のことをよく知りたいと思うようになった。
 この子がここでどんな生活をしてきたのか。何を考え、どんな風に生きてきたのか知りたい――そう思った。
 少女は怪訝そうな顔をしたが、モニターのチェックが終わってからなら、と二つ返事で承知した。ノーザから待機命令を出されている今の状況では、侵入者の監視以外、特にやるべきことも無い。このまま時間を持て余すよりは――そう思ったのかもしれない。

 少女がラブの半歩先を行き、ラブはその斜め後ろを、辺りを見回しながら歩く。
 それぞれ異なる戦闘能力を鍛えるための様々なトレーニング・ルームや、数多くの専門書が並んでいたという図書室。少女は次々と案内して、ここがどういう施設だったのかをラブに説明していく。
 元はトレーニング・マシーンや器具類、おびただしい数の書籍がずらりと並んでいたというそれらの部屋は、今はどれもただの空き部屋に過ぎなかった。それでもラブは、何もない部屋の中をきょろきょろと見回し、興味津々の様子で少女にいくつも質問を浴びせる。
 そのせいか、少女の説明は次第に詳しいものになり、その内容も、いつしかここでの暮らしについての説明が多くなっていった。

 やがて少女が、学習室と呼ばれていた部屋にラブを連れてきた。ここも元は数多くの机やコンピュータがあった部屋だという。
 ぽつんと残された演台に両手をついて、ラブはガランとした部屋を、愛おしそうな目つきで見渡した。

「へぇ、同じ建物の中に教室があったんだ。道理で学校に行かなくて済むわけだよね……。ねえ、やっぱりクラス分けがあったり、担任の先生が居たりしたの?」
「“担任”というのは知らないけど……“クラス”というのはレベルのこと? それなら、全国統一で十段階に振り分けられていたわ。ここに居られるのは、レベル九と十の人間だけ」
「凄っ……それって五段階の通信簿に直すと、全員がオール五ってこと?」
「そうなるかしら。あなたはどのレベルだったの?」
「え、あたし? う、うーん……五段階の……真ん中くらい、かな。アハハハ……」
 苦し紛れの笑い声を上げるラブに、隣に立っていた少女はまたも呆れた顔になる。が、次のラブの質問を聞いて、その表情は不思議そうなものへと変わった。

「そんな優秀な人たちがみんなで受ける授業って、きっと難しいんだろうなぁ。ねえ、ここで毎日そういう授業を受けていたの?」
「授業って……日々の学習の? そんなものは、みんな自分の部屋で、コンピュータを使って勉強していた。ここには、まだ幼い頃に端末の操作を覚えたり、コンピュータでは学習しきれない、実験や演習をするために来ていただけ」

「え……じゃあ勉強って、小さい頃から一人でやってたの!?」
「一人じゃなくてどうやって勉強するって言うの?」
 ラブが目を丸くして驚く様子に、少女の方がさらに不思議そうな顔をする。
「だって、小さい子に一人で勉強しろって言ったって……」
「ここでは一日のスケジュールがきちんと決められていた。だからそれに従うだけのこと。幼い子供にだって簡単よ」

 なおも目を丸くしているラブに、少女はすらすらと一日のスケジュールを言ってみせる。
「起床、朝の訓練、朝食、勉学。昼食後、勉学と訓練。身体清掃と夕食の後は、一日の反省と明日の目標をパーソナルデータに入力して、就寝」
「凄い……。で、でも、お休みの日もあるんだよね?」
「丸一日なんか休んだら、頭も体も鈍るだけ。どうしてそんな日が必要なの?」
「え……じゃあ、楽しいことって、何も……」
 遠慮がちに呟くラブの言葉を聞いて、少女は不意に背筋を伸ばすと、妙に誇らし気な様子で言った。

「一日のうちで一番楽しみだったのは、反省の時間の冒頭に、メビウス様のお声が聞けることだった。ほんの短い時間、スピーカーからお声が流れてくるだけだったけど、それでも嬉しかった。有り難かった。こんなところでぐずぐずしていないで、早くメビウス様のお役に立ちたい。毎日その思いを新たにすることが出来た……」
 そう言って、少女が力なく首を垂れる。少女をじっと見つめながら話を聞いていたラブも、悲し気な顔になる。が、少女はそこで顔を上げると、憎々しげな目でラブを睨んだ。

「メビウス様はコンピュータだったのに……そう思ってるんでしょう?」
「ううん。そんなこと、あなたがメビウスを思う気持ちには、関係ないよ」
 一瞬の迷いも無いその答えに、少女がわずかに目を見開く。ラブの方は、何だか泣きそうな表情のまま、少女に向かって愛おし気に微笑んだ。
「本当に偉いね。そうやって小さい頃から、ずーっと頑張って来たんだ」
 だが。
「あなたが……お前が言うな!」
 少女の言葉が鋭い棘となって、今度は耳からラブに突き刺さった。

「偉い、ですって? ずっと頑張って来た、ですって? その努力を水の泡にしたのは誰? 私はもう少しで次のイースに――幹部になれるところだった。完璧に管理された正しい世界で、メビウス様のお傍にお仕え出来るはずだった。それを……このラビリンスを、こんな愚かな世界にしたのは誰!?」

 少女がラブの顔をひたと見据えたまま、押し殺したような声を出す。赤い瞳が、さっきより鋭い光を放って、ラブをねめつける。

「ふん、知っているわ」
 呆然とするラブに、少女は勝ち誇ったように言葉を繋いだ。
「あなたは……あなたたちは、ラビリンスなんかどうでも良かったんでしょう? あの時ラビリンスへ乗り込んだ目的は、メビウス様がやっと手に入れたインフィニティを取り返すため。ただそれだけだったんでしょう?」
「え……?」

 ラブの瞳が、小刻みに揺れる。
 確かにはじめは、奪われたシフォンを取り戻すことしか考えていなかった。「みんなの世界を元に戻そう」とは言ったが、その“世界”の中にラビリンスが入っていたかと言われれば、胸を張って「はい」と言える自信は無い。

 言葉に詰まるラブに、相変わらず鋭い視線を向けながら、少女がなおも言葉を重ねる。
「だけど、あなたたちが来て、ラビリンスは変わってしまったわ。メビウス様は、全パラレルワールドをラビリンスのような正しい世界にしようと、壮大な計画を立てておられた。だけどそれが成し遂げられなかったばかりか、このラビリンスまで愚かで醜い世界になってしまった」
「それは違うよ!」
 ラブがようやく顔を上げて、力強くかぶりを振った。

「今のラビリンスは、愚かなんかじゃない。醜くなんかない。みんな、これからは自分たちの力で幸せゲットしようって頑張ってるじゃない」
「本当に、みんながそう思ってるって言えるの? 異世界に住んでいるあなたに、今のラビリンスの本当の姿なんか分からないでしょう?」

――もう老い先短い身だ。このまま静かに、一人で過ごさせてくれ。

 不意に、二日前に出会ったあの老人の言葉が蘇って来た。少女に対してか自分に対してかよく分からないままに、ラブが目をつぶって小さく頷く。

「そうかもしれない。だけど……みんなそれぞれ、感じ方も考え方も違うから、自分の考えと違ったり、上手く行かなかったりすることだってあるよ。だから、みんなで話し合うの」
「メビウス様に正しく管理された世界では、そんなこと必要なかった。人と対立したり、争ったりすることも無かったわ」
「本音を言い合えば、喧嘩になることだってあるよ。でも、人間には互いを思いやる心があるんだよ。だから……」
「そんな心、今も昔も、私はこのラビリンスで一度も見たことなど無い!」
 少女がラブの言葉を遮って、きっぱりと言い切った。

「私は、あのお節介な元・幹部に連れられて、警察組織が争いの仲裁をする現場を何度か見たわ。私自身、人と争ったこともある。でも、結局争った人たち両方か、どちらか片方が罰を受けて終わりよ」
 少女が演台から少し離れ、腕組みをしてラブを見つめる。
「みんなそれぞれ、考え方が違うって言ったわね。それはよく分かる。人と意見が違うから、みんな自分が正しいと主張するのに必死で、人を思いやる余裕なんかどこにも無い」
「そんなことない。誰かと争う嫌な気持ちとか、分かってもらえない悲しい気持ちとか、みんな知ってるでしょう? だったら、相手の気持ちだって分かるはずだよ」
 ラブもいつしか演台から離れ、少女の正面に立ってその顔を見つめる。その真っ直ぐな瞳をしばらく見つめ返してから、少女はフッと、目の力をやわらげた。

「……あなたの世界はそうなのかも知れない。でも、だからと言ってラビリンスもそうとは限らないわ。人がそれぞれ皆違うなら、世界だって、それぞれ違うものなんじゃないの?」
「そんなこと無いよ! ラビリンスの人たちだって……」
「まぁいい。私の言っていることが正しいと、すぐに分かるわ。それに自分の努力だって、このまま水の泡にしておくつもりは無い」
「それ、どういう意味? そのために、不幸のゲージを? ねえ、一体何をするつもりなの?」
 ラブが少女ににじり寄り、不安そうにその腕を掴む。
「今に分かるわ」
 少女は一瞬でラブの手を振りほどくと、先に立って学習室を後にした。



 その夜、昨夜と同じ部屋のベッドの上で、ラブは長い間、闇を見つめていた。
 小さく唸り声を上げたり、大きなため息をついたりしながら、何度も寝返りを繰り返す。
 夜の時間は、闇と静寂の中でのろのろと過ぎ、やがてラブがここへ来て三日目の朝が来た。



   ☆



 眠れないと思っていたが、明け方になって少しうとうとしたらしい。
 ラブがベッドの上に起き上がったのは、昨日よりも遅い時間だった。

 慌てて向かいの部屋を覗き、そこに誰も居ないのを確認してから、今度は食堂へと足を向ける。
 テーブルの上には一人分の食事が残されていて、やはり少女の姿は無い。その時ラブの耳に、昨日と同じ、タン、という小さな音が聞こえた。

 道場へ行ってみると、果たしてそこに少女は居た。昨日より厳しい顔つきで、動きもさらに速く鋭くなっている。
「今日は、スケジュール通りじゃないんだね」
「そろそろノーザさんが帰って来る。出撃の前には、それ相応の準備があるの。スケジュールにも組み込まれているわ」
 ラブの方を見ないまま、少女は息も乱さずに答える。
 そう、と小さく答えてから、ラブは大きくひとつ深呼吸をして、少女に一歩近づいた。

「あのね。聞いて欲しいことがあるの」
「何? 不幸のゲージのことなら、ノーザさんが帰って来たら……」
「ノーザが帰って来る前に、聞いて欲しいんだ。せつなの……イースだった、あたしの親友の話を」
 少女の動きが、ぴたりと止まった。

「せつなはね。あたしたちの世界に来て、メビウスの命令を果たそうと、凄く一生懸命だったんだ」
 少し悲しそうな、そして実に愛おしそうな表情で語るラブを、少女が怪訝そうな顔で見つめる。
「一生懸命って……その頃の彼女は、あなたたちの敵だったんでしょう?」
「うん。でもあたしたち、友達になったんだ。本当はリンクルンを……変身アイテムを奪うために近付いたって、後で言ってたけど」
「バカバカしい。そういうのを“潜入”と言うの。あなたを騙していただけ」
 少女が呆れたようにため息をついてから、それで? と先を促す。

「プリキュアになってからも、せつなはいつも一生懸命だった。どんな時でも、どんな小さいことでも、“精一杯、頑張るわ”って、そう言って頑張るの。あなたもそうやって頑張って来たんだよね?」
「あの人と……裏切り者と一緒にしないで」
 少女がラブから顔をそむける。
「あたしの力は、プリキュアに変身して初めて使える力だけどさ。せつなは普段から、すっごく強くて、頭も良くて……。その理由が、ここへ来て、あなたの話を聞いてよく分かったよ。小さい頃からずーっと頑張って来たから、身についたんだよね。メビウスのためだったかもしれないけど、自分自身の力として」
 そう言って、ラブは優しい笑顔で少女の顔を覗き込んだ。

「人がそれぞれ皆違うなら、世界だってそれぞれ違うんじゃないか……あなた、そう言ったよね? でも、一生懸命頑張って身につけた力が、水の泡なんかじゃなくてその人の力になるってことは、どの世界でも同じだと思うんだ。だから、あなたも……」

 次の瞬間、くるりと世界が反転した。ダン、という鋭い音と共に、肩と背中に衝撃が走る。
 気付いた時には、ラブは道場の床に仰向けに転がされていた。のしかかるような格好でラブを見下ろす少女の瞳が、今度は純度の高い怒りの炎を宿す。そしてラブの顔面に、高速のストレートが迫る――!

 思わずギュッと目をつぶる。だが、いくら待っても衝撃はやって来ない。
 恐る恐る目を開けると、ラブの鼻先ギリギリのところで、少女の拳がぴたりと止まっていた。

「……何の努力もせず、与えられた力だけで勝利を収めたあなたに、そんなこと言われたくはない!」
 少女が低く凄みのある声を出す。
「あの人が……イースがどんなに凄い戦士だったか、あなたなんかに分かるわけがない。彼女に追いつき、追い越すことだけを目標にして、私は……」
 少女がギリッと奥歯を噛みしめた、その時。
「どう? 休暇は楽しめたかしら」
 不意に、道場にノーザの声が響いた。



 少女が道場を飛び出し、地下室に走る。ラブも慌てて起き上がり、その後に続いた。
 一昨日は固く閉ざされていた地下室のドアは、今は大きく開かれている。部屋に入ると、既にラブの背丈ほどの高さまで液体が溜まったゲージが、二人を出迎えた。

 ノーザの映像が、相変わらず妖艶な笑みを浮かべて少女たちを見つめる。
「どう? 私の成果もなかなかのもんでしょう?」
「……お見事です」
 少女が無表情にゲージを見上げてから、ノーザに向かって頭を下げる。
「では、この子に見せてあげようかしら。裏切り者のラビリンスの国民たちの、不幸な姿を」
 ノーザの指が、パチリと小気味よい音を鳴らす。すると、ノーザの映像の周囲の空中に、幾つもの画像が浮かび上がった。

 見るも無残に破壊された、ラビリンスの街並み。
 我先に逃げようとして、将棋倒しになる人々。
 避難所で言い争っている、怒りと不安に満ちた、顔、顔、顔……。

 ラブの目が大きく見開かれる。それを見て、ノーザは実に楽しそうに、甲高い笑い声を上げた。

「ほらね。私が言った通りじゃない」
「そんな……。こんなの嘘だよ!」
 目を潤ませるラブを、勝ち誇ったような表情で見つめる少女。その目の前に、するすると一本の蔦が伸びる。少女に差し出されるような格好で蔦の先にあったのは、あの暗紫色のダイヤだった。

「さぁ、あなたの出番よ。ラビリンスの国民たちに教えてあげなさい、この不幸の意味を」
「不幸の意味って……どういうこと!?」
 ラブがノーザの映像に迫る。
「これはメビウス様の制裁だ、ってそういうこと。人の不幸は蜜の味。あなたがそれを知らせてあげれば、この世界の人間どもがどれだけ打ちのめされるか……。ゲージが上がるのが楽しみだわぁ」
 実に楽し気なノーザの言葉に、ラブは目に涙をいっぱい浮かべたまま、力一杯少女の両腕を掴んだ。

「ダメだよ! 行っちゃダメ! そんなこと聞いたら、みんな不幸に飲まれちゃう。せっかく立ち上がろうとしているのに、立ち上がれなくなっちゃうよ。お願いだから、そんなデタラメでこれ以上みんなを惑わせたりしないで!」
 と、その時、ラブの背後からもう一本の太い蔦が伸び、ダイヤに気を取られていた少女が反応する間もなく、ラブの身体を巻き取った。

「フフフ……相変わらず能天気ねぇ。私たちの計画がデタラメだなんて、どうして言えるのかしら? この子に教えてあげなさい」
「……本当に、間違いないんですよね?」
 ゲージの横に宙づりにされたラブに目をやってから、少女が初めてノーザを詰問する。
「あら、私が信じられないの? 疑うのなら、降りてもいいのよ?」
「いえ、そんなことは……」
 少女はかぶりを振ってから、ラブに向かってぶっきら棒な調子で言った。
「メビウス様は、もうじき復活なさるの。ノーザさんの力でね」

「嘘! だって、メビウスは自爆したんだよ? 復活なんてあり得ないよ!」
 ジタバタと身をよじって何とか拘束から逃れようとしながら、ラブが声を張り上げる。それを聞いて、ノーザの笑みが消えた。
「せっかく教えてあげたのに……痛い目に遭わないと分からないようね」
 ノーザがさっと右手を挙げると、蔦がギュッと締まって、ラブの身体を締め上げる。
「うわぁっ!」
 ラブは思わず悲鳴を上げて、苦しそうにケホケホと咳をした。

「おやめ下さい!」
 少女が大声を上げてから、我に返ったように小さく咳払いをする。
「そいつには、危害を加えないと約束しました。ですから……」
「甘いなぁ。そんなことで本当に幹部が務まると思っているの? まあ、最近の幹部には何故か愚か者が多いから、仕方ないのかしら」

 ノーザの嘲るような声に、少女の目つきが変わった。グッと拳を握ってから、挑むようにノーザの映像を見つめる。
「私は、メビウス様を裏切った元・幹部たちとは違います。己の力は、メビウス様のために。それ以外のものには使わず、自分の望みを叶えてみせる!」
 言うが早いか、少女の手が暗紫色のダイヤを、躊躇なく掴み取った。

「いい覚悟ねぇ」
 少女の様子を眺めて、ノーザがニヤリと笑う。
「闇は人を不安にさせる。だから通告は、夜まで取っておきなさい。それまでは現状を確認がてら、あなたも一暴れすればいいわ」
「承知しました」

「待って!!」
 ラブがそう叫ぶと同時に、少女の周りの空間が歪む。ギュッとダイヤを握りしめた少女と目が合ったと思った次の瞬間、彼女の姿は消え失せていた。
「フフフ……。これで確実に、不幸のゲージは満タンになる」
 高らかなノーザの哄笑が響き渡る。なす術もなく瞳を震わせるラブの隣で、不幸のゲージが、ゴポリ、と微かに不気味な音を立てた。


~終~