【夜想曲:nocturne】/◆BVjx9JFTno




ラビリンスには、音楽というものは無かった。
この世界に来て、初めてその存在を知った。


耳から入り、心に作用するもの。
感触すら、はっきりと思い出すこともある。





     【夜想曲:nocturne】






テーブルの上には、これでもかとばかりに
ご馳走が並んでいた。


庭に面したテラス席。
夜風が気持ちいい。


今夜は、私がラブの家族になって、初めての
桃園家恒例、外食デー。



この間は、いきなりラブに連れて来られた戸惑いと
心の整理が出来ていなかったこともあり、
最初は動揺していた。



でも、
ここで、ラブに教えてもらった。



家族。


笑顔。


そして、幸せ。



「せつな、ケーキの種類すごく増えてるよ!」
「本当だわ、どれにしようかしら」


色とりどりのケーキが並ぶショーケースを
眺めていると、とても幸せな気分になる。
その思いを閉じこめなくても良いことが、嬉しい。



顔を上げると、店の中ほどにある黒い塊が目に留まった。
「ラブ、あれは何?」
「ん?...ああ、あれはピアノって言うんだよ」


「ピアノ?」
「うん。とっても綺麗な音がするんだよ。
 今日はピアノ演奏があるから、私も楽しみなんだ。」


「演奏...」



正直、音楽のことはまだよくわからない。
ダンスの練習で聴いている音楽も、まだ体の動きに
意識を集中するのが精一杯で、「1,2,3,4」と
タイミングをとるためのガイドの域を出ない。


みんなで囲む食事は、とても楽しく、
時間を忘れるようだ。



優しくみんなの話を聞くお父さん。


空いたお皿の整理や並べ替えを忙しくやりながら
ほうれん草を食べる決心をつけかねているお母さん。


いろんな話をして、朗らかに笑いながら
あっという間にご馳走を平らげるラブ。
ちゃんと噛んでいるのだろうか。


私もみんなと一緒に笑いながら、スープを口に運ぶ。


体にしみわたる、幸せの味。
あの時、家族みんなが気づかせてくれた味。


紺色のドレスを着た女の人が入ってきた。


店内に拍手が起きた後、水を打ったように静まった。



「始まるよ」
ラブが私に耳打ちする。



女の人は頭を下げ、ピアノの前に座る。



演奏が始まった。



とても澄んだ音が響きわたる。
穏やかで、静かな音の連続。


ひとつひとつの音が、頭ではなく
胸の奥に届く。


星が瞬く、夜のような情景が心に浮かぶ。
その中に、吸い込まれていく。



そのうち、静かなメロディは響きが暗くなり、
激しさと不安さが増す。


心の中の空は曇り、雨が降り出す。



ふいに、あの時の感覚がよみがえってきた。
感触まで思い出せるほど、鮮明に。


......


音を立てて胸の鼓動が止まる。


顔に水たまりの感触がわずかにある。
すべての感覚が急速になくなっていく。



ラブの笑顔が浮かぶ。



まだよ、まだだめ。


もっと、色々、話したい。



ラブの笑顔が、


だんだん、小さくなる。



行かないで。



ラブの笑顔が、遠くなる。



行かないで。


行かないで。



ラブの笑顔が、消える。


......



察したのか、テーブルの下で
ラブが私の手を握ってくる。


演奏からは激しさと不安さが次第に消え、
また穏やかな音へと推移する。



心の空の雨が、止む。


雲が切れ、明かりが差し込む。



......


赤い光に包まれる。



意識がはっきりしてくる。



体の感覚が戻ってくる。
足に力が入る。
手に力がよみがえってくる。



そして、


また出会えた。


ラブの笑顔。


......



最後の1音が、静かな余韻を残す。


いつの間にか、涙がほおを濡らしていた。


みんなが拍手をする間も、
私の体はまったく動けなかった。


「せつな、大丈夫?」
私の手を握ったまま、ラブが心配そうに
私の顔を覗き込む。


「...うん、演奏を聴いていたら、
 色々思い出しちゃって...」



まだ余韻が残っている。



「これが、音楽...」


「本当に素晴らしいわ。私も感動しちゃった」


目を潤ませたお母さんが、ハンカチを私にくれる。


「せつなちゃんもやってみる?うちにも、小さいけど
 ピアノあるのよ。ラブはすぐにやめちゃったけど」


「にははー」


「明日、少し弾いてみていいですか?」


「ええ、もちろんよ。少しなら私が教えてあげられるわ」



レストランからの帰り道は、いつもよりゆっくり歩いた。


お父さんとお母さんはワインを飲んでちょっとご機嫌。
腕を組んで歩いている。


ラブと私は、そのだいぶ後ろを歩いている。



「ピアノ、ロマンチックだったねー」
ラブがうっとりした表情で話す。


「あんなに心に響くなんて、知らなかったわ...」
「またひとつ、幸せゲットだね」



街灯がやさしく道を照らしている。



音楽が心を揺らしたからか、
自然に手が出た。


そっと、ラブの腕に私の腕を絡ませ、
頭をもたせかける。



どこにも行かないでね。


どこにも行かないから。



ラブと目が合い、お互い微笑みあう。



少しでも長く、このままでいたくて、
歩く速度をまた少し、落とした。



※元になった曲は、ショパンのノクターン8番です。