優しい世界(後編)/そらまめ
「ふー 今日はたっくさん遊んだねーせつな!」
「ほんとよ。午前中に遊びに行ったのにもう夕方よ? ラブもいつまでもテンション高いままだし」
「あはは、ごめんごめん! でもせつなだって雪だるま作ったりかまくら作るの初めてだって言ってすごい集中力だったじゃん」
「う…それは、まあ、つい」
「楽しかったね!」
「ええ」
並んで歩く土手はオレンジから黒へ変わろうとしていた。公園で思うままに作っていたら夢中になってしまい、雪遊びというのはこんなに楽しいものだと初めて知った。途中から参加した美希と祈里も加わっての四人で作ったかまくらは中々の力作で、公園にはでかでかとそれが残っている。あの大きさならそう簡単には溶けないだろう。
「お腹減ったね。今日の晩ご飯なんだろう?」
「私もお腹ぺこぺこ。今ならピーマンだって食べられるかも」
「なんと! せつなにそこまで言わせるとは雪の魔力は凄まじい…」
「凄まじいのはどちらかというとラブの体力だけどね」
路地を歩きながらそんな事を話す。角を曲がればもう家だ。家に帰ったらすぐにご飯を食べたいが、すっかり日の暮れた外気で水気のある服が冷えていくことに、このままでは風邪をひいてしまいそうだから、ごねるだろうラブと一緒にお風呂に入った方がいいかもしれないと思わなくもない。
「あれ? 家真っ暗だ」
「え…?」
呑気にお風呂のことを考えていたら、隣から不思議そうな声がして顔を上げる。いつもなら暖かい明かりが帰りを待っていてくれるはずのそこが、光の無い暗さに染まっていた。
「お母さん出掛けたのかなあ?」
そう言いながら家へ歩を進めるラブと同じように近づくことが出来なかった。縫い止められたように足があがらない。何故だかわからないがとても怖かった。いつも光に溢れているはずの場所に明るさが無い、暖かさが無い。そのことに酷く恐怖を覚え、冷たい空気が体を急速に冷やしていく。
「何してるのせつな。 ほら行こう!」
「あ…」
鉛のように重かった足が、ラブに手をとられたことで嘘のように動き出した。
そうして玄関の扉を開け照明の明かりをつけるラブをぼーと見ながら、誰かが電気をつけるから明るくなるんだと当たり前のことに驚いた自分がいた。
「書き置きは…ないみたいだけど、買い物バック無いからスーパーに行って誰かと話し込んでるのかな? 最近暗くなるのも早いし今頃気付いて慌ててるかもね」
「そう…なのかしら」
ラブはいつもの事だと気にせず言うけれど、心配になる。本当に帰ってくるのだろうか。
冷静に考えれば帰ってくるのは当たり前だし、気にするほどでもないのにこのままじっとしているのは何故だか嫌だった。そわそわとする自分に気付いたラブは、少し考えてから、
「お母さん迎えにいこっか」
「…! ええ」
にこっと笑い手をとって歩き出す。外に出れば更に寒さは増していたけれど、それよりも早くお母さんの顔が見たくて、隣で歩くラブと変わらない会話をする。明かりの灯る家を背に夕ご飯のメニューに花をさかせながら。
―――――…
あの家に足を運んだのは、気まぐれと呼ぶにはあまりに捨て身な行動だったと振り返っても思う。
明確な理由はなかったが、漠然とした胸の違和感が昼間からとれず、どうしようもなかった。あの男が家に帰っているかもわからない。自分が敵とわかってしまったから、あの家にはもう寄り付かないかもしれないとも考える。
家が見える場所まで来た。辺りはもう暗く、点々とある家の明かりが申し訳程度に道を照らす。ここまでの道の明かりも随分減った。主がいなくなった建物はそれだけでもの悲しさが漂うものだと感じた。
視線の先に目的の場所が見えたが、そこは周囲の暗さと同化していて、闇に紛れたそこからはいつもの様な心地よさを感じられない。玄関の扉の前に来ても、その中に人の気配はしなかった。
くるりと向きを変える。何をやっているんだ自分は。敵の家にのこのこやってきて何をしようというのだろう。口封じかはたまた知らぬうちに懐柔されたか。どちらも違うと首を振り、もうここには来ないだろうとの想いで最後に後ろを振り向き、その家と風景を胸に刻む。短い間だったがここには世話になった。
「…もうここには来ないと思ってた」
「…っ!」
背後から声がして慌てて振り返る。そこにはヘルメットを被ったこの家の主がいた。
「それでもなんか諦めきれなくて探しに行ってたんだ」
「なん、で…」
「なんでだろうな。でも、じっとしてられなかったんだ」
ゆっくりと近づいてくる。思わず腰のナイフに手をかけるが、あちらには争う気配がないことに気付き柄を掴むのを止めた。
「寒かっただろ」
「…」
そんな言葉に何も返せずただじっと見つめる。脇を通り過ぎ玄関の鍵を開けると扉をそのままに中へ入っていった。開かれたままの扉。入れと言われている気がしてしばらく経ってから後を追う。
火をかけるやかんから、湯気が噴き出す音が部屋中に響いた。暖炉では燃料である木がパキっと折れ時折火の粉がのぼる。テーブルを見つめていてもそれらの音が耳に届く。昨日まで定位置だった椅子に座る事もできず、目の前でやかんを見る背中を眺めた。敵に無防備に背中を見せるなんてこの男の命も短いかもしれないと考えながら、自分を部屋に入れた意味を思案する。そのうち、沸騰したのかやかんのお湯を二つのコップに注ぎ両手にそれを持ってきた。
「ずっと立って何してんだ、座れよ。ほら、冷えただろ、飲め」
ことりと置かれたコップからは湯気が出ていて、日常に眩暈がする。
だが、戦士としての思考がもしかしたら毒が入っているかもしれない。油断させて気を許した瞬間切りつけられるかもしれない。と警告を鳴らし、頭の中でグルグルと渦を巻いている。
「毒は入ってないぞ。んっ、ほら」
いつまでも手を付けない自分にコップをとって一口飲んでからまた手前に置かれる。ドカッと椅子に座り飲み始めた彼の行動にようやく自分もコップを手に取り座った。
ちびちびと飲むそれは馴染んだ味で、まるでいつもの食後みたいに感じて不意に涙が出そうになったのを湯気に紛れて隠す。
目の前では早々に飲み終わったのかやかんから二杯目をコップに注ぐ彼がいる。
しばらくは会話どころか言葉一つもなかった。お互いが言葉を飲み込むようにコップを傾け、いつしか体の冷えはどこかへ飛んでいた。
「なあ…ここでの生活は、お前にとってどうだった?」
突然すぎて傾けたコップが不自然に動きを止める。コトっとテーブルにコップを置いてからこちらを見つめる眼はどこか不安気だった。
「どう、とは…」
「ここで生活してる間、お前は窮屈だったか? 無理させてたか?」
誰かに命令されてここに来ていたのか。そんな言葉たち。
「…わたしは…私は自分の意思でここにいた。お前に連れてこられて最初は戸惑ったが、それでも本当に嫌だったらここからすぐ立ち去っていたはずだ。そう…」
私は、ここを気に入っていたんだ。
言葉にして初めて分かる自分の気持ちに驚いた。ここで生活をすることは誰に言われたわけでも使命からでもない。自分がそうしたいと自身が思っての行動だった。自分が自分の為に行動した数少ない経験の中で、純粋な願いから望んだことはそう記憶にない気がする。
「そうか、よかった…」
心底ほっとしたように顔を綻ばせたことに理解ができない。
「なぜそんな嬉しそうにするんだ。お前は敵を匿っていたことになるんだぞ。仲間への裏切りではないのか」
「いや、俺が嬉しく思ったのはそんな難しいことじゃない。俺は、お前が自分の願いで動いていたことが嬉しかったんだ。お前が願うことを止めずにいてくれたことが嬉しいんだ」
今にも泣きそうな笑顔でそんなことを言われてもどう対応していいかわからない。こんな時の対処法なんて教えられていない。
「なあ、この世界は優しいもんじゃない。お前も思うだろ?」
それは出会ったあの日にかけられた言葉に似ていた。
「それでも、俺達はここで生きていかなくちゃいけない。こんな優しくない世界だから諦めなきゃいけないことは多いかもしれない。けど……それでも、願うことだけは止めないで欲しい」
夢を見ることを諦めないでくれ。
祈るようなその言葉に、胸が締め付けられる。
「…やはりお前は兵隊なんかより聖職者の方が向いている」
「そうか? …お前が言うんならそうかもな」
それきり会話はなかった。
空になったコップをキッチンに持っていき、いつものように洗った。使ったものは自分で片づけるのはここでの数少ないルールでもある。
部屋には戻らず玄関へと歩く。彼は振り返らなかった。また。とも、さよなら。とも言わず扉を開けて暗闇へと歩く。
この日を最後に、この家に赴くことは二度となかった。
数日後、再び戦場へと送り出された自分は数多の人間の中に彼を見つけた。隠れるように建物の屋上から動きを監視していたから見つけられたもので、いつものような目線にいたのではその存在を認識することもできなかっただろう。
仲間に動きを伝える。近頃はあちらの攻防が堅く思うように作戦は進行していない。こんなこと自分が一員として従事しだしてから初めて体験することで、ラビリンスにとっても無いに等しいことだったらしい。上層部では作戦を一旦白紙に戻すことも視野に入れた会議が今も行われている。
この世界は今までとは違うのかもしれない。人の想いが強いと誰かがぼやいていたのを休息所で聞いた気もする。
人の想いの強さなど自分には理解できない。理解できるほど人と触れ合っていないから。
それでも覚えておきたいことはできた。人の心に疎い自分でも感じ取れた想いは、強さだったのだろうか。
「――地上に降りて行動せよ」
「了解」
少ない指令にいつものように腰のナイフをとり、瞬きを一つして思考を飛ばす。使命を果たすため階段を下りた。
建物と建物の間にある小さな路地を使い紛れるように距離を縮める。こういった場所でも制限なく動けるのは自分にしかできないため、基本的に作戦は単独行動で、今回も周囲には敵どころか仲間もいない。
周りよりも小柄な分見た目で判断されることが多く、軽んじられてきたことは数えるのも馬鹿らしくなる程ある。その度に強さで周囲の騒音を蹴散らし、高圧的な態度で差を埋めた。強さは何よりも証拠になる。誰よりも強くなってメビウス様の元で働くことができれば、今のような思いをしなくて済む。だから実績を作り人より上に行きたい。
作戦で招集される度、武器を持つこの手が求めるのは自分の強さ。誰かを守るために刃を振り下ろしたことなど一度もない。それは今日も変わらない。
そういえばあの男はなんて言っていただろうか。思考を止めたせいで思い出せない。
足音の数が徐々に増え、大きなものになってきた。銃を持った男たちが走り去っていくのを路地に隠れやり過ごす。絶えず何かを叫ぶ声が聞こえ、それに続けと男達の声が大気を震わせる。ラビリンスとの士気の差があまりにもありすぎて、削ってきた戦力をものともしないこの部分がラビリンスを手こずらせている原因だと考えた。ただ原因がわかってもそれを乗り越える術は今の我々にはない。
「押せー!! 」
「トイ部隊と合流しろ! 一気に押し返すぞ!!!」
「「「おおぉぉー!!!!」」」
また一段と強くなる熱にこのままではこちらが危うくなると思い路地を引き返す。いくつもの角を曲がり迷路のように狭い場所を駆け抜ける。時折瓦礫で塞がれ通れない道に舌打ちを打ちながら頭の中に叩き込んだ地図に従い走れば、目的の場所である彼らの拠点はすぐそこだった。
この直線を走り抜ければ迷路も終わる。この街特有の旋風が巻き起こったのはそんな場所だった。時に瓦礫すら巻き上げるほどの強風に、下から吹き上げる雪が視界を遮り、両腕を顔の前にやり雪からの攻撃を防ぐ。今日はいつもより長く思うように息ができない。風はしばらく経ってから収まり、左右に乱れていた髪も落ち着きを取り戻したことに思わず一息ついた。
「逃げろーーっ!!」
そんな時、切羽詰まった叫び声が鼓膜を揺らした。顔を上げれば一人の男がこちらに向かって走っていて、そのあまりの大声と勢いにナイフを構える事すら忘れる。
そのままの勢いで迫った男は、触れた瞬間自分をはるか遠くへ突き飛ばした。
その直後地響きのように地面に何かが当たる音がして粉塵が舞い散る。大きな建物の一部がさっきまで自分がいた場所に道を塞いで横たわっていた。
何が起きたのか理解できない。自分は誰に突き飛ばされた?粉塵の中に地面に伏せるような人影が見える。
「おいっ!!」
思わず駆け寄り呼びかける。瓦礫の下敷きになり上半身しか見えない。地面には血が流れ出していた。
「おいっ! しっかりしろっ!!」
呼びかけても反応しない姿にそれでも呼びかける。数度繰り返すと、頭の横に投げ出されていた手先がピクリと動いた。
「ぐっ…ぅ…」
「しっかりしろ! 意識を飛ばすな!!」
「ぁ…、無事、か…?」
「…っ! なんで…!」
いつも見上げてばかりいた顔。今は自分が目線を下げている。額にも傷を負ったのか一筋の血が縦に流れていた。
「無事だった…よかった、ぐっ…」
「なんで、助けたんだ…私は敵だぞ…放っておけばよかっただろ…」
「…守りたかったんだ…お前を守ってやりたかった、ずっと…思ってた」
嬉しそうに言わないでくれ。理解できないから。敵を助けたかったなんて意味の分からない事を言わないで。心で処理しきれないから。マグマのように湧きあがる感情に叫びだしたくなる。
解らない。解らない。この男の行動も言葉も理解できない。
解らないがとにかくこの瓦礫から早くだしてやらなければと、焦る気持ちで上に乗っている瓦礫を押す。だがビクともしない。体を引っ張る。男が呻く声を出すので止めて再び瓦礫を押した。こんな小さな体の腕力では全然足りない。もっと力があれば、もっと強ければこんなコンクリートの塊になんて負けないのに。なぜ自分には力が無いのか。
もっと強くなりたい。
歯を食いしばってもどんなに力んでも動かない。それでも諦めるなんて言葉は思いつかない。
「今崩れた所に誰か走っていかなかったかっ!?」
「おいっ! 誰かいるか!!?」
そんな時彼らの仲間達だろう声が瓦礫の壁の向こうから聞こえてきた。
「いるっ!! 一人下敷きになってるんだ!!」
敵である事も忘れ大声で呼んだ。
「助けてくれっ!!!」
溢れる気持ちが声になって駆け抜けた。
「待ってろ今行く! 乗り越えるのは無理だ! 迂回路を探せ!!」
「今行くから死ぬな!!」
そんな言葉たちが空から降り、駆け出す音が聞こえた。
「ぅっ…ぐっ…」
「今お前の仲間が助けに来る! それまで踏ん張れ!!」
「お、れはだい…じょうぶだ…だから、みんな、来る前に逃げ、ろ」
「なに、言ってる。そんなことできるわけ…」
「行け」
「いゃ…」
「早くしろっ!!」
「…っ!!」
拳を地面に打ち付け吠えるような叫び。思わずビクリと肩があがり、その声を聞きつけこっちだと叫ぶ男たちの足音が耳に届いた。
「走れっ!!」
「っっ……!」
駆け出した。彼に背を向け走り出す。離れてから数十秒後に「いたぞ!」と声が上がるのを聞き更に速度を上げた。肺が痛くなるまで走って走って街はずれまで止まる事なく息を荒げ、道に転げ落ちていた石に躓いて体を地面に叩きつける。そこでようやく走る事を止められた。
なんで。なんで。なんで。
壊れたように何故、どうしてを繰り返す。口から零れる小さくか細い声は言葉にすらなっていない。
今までのここでの生活が走馬灯のように駆け廻る。ごつごつした手の感触、抱きしめられた暖かさ、笑いかける笑顔も声も、何もかもが零れ落ちていった。
あの血の量、助かるわけないと戦士の自分が呟いて、その原因を作り出した自分がそれを受け止めきれずに叫んでいる。
なんでこんなことになったんだ。あんな瓦礫上手く躱せただろ。気付けただろ。動かせただろ。
全部、自分が弱いせいだ。弱いからこんなことになった。強くないから失った。
大切なものを、失った。
「ああぁぁあーーーー!!!!」
空に向けて慟哭する。喉が焼き切れるほどに、息が続かなくなるまで叫んだ。
ぜぇぜぇと息が乱れせき込み、地面に着いたままの両手が土を削る。
「そうだ…強くないから…こうなったんだ…強くないから失った」
強くなりたい。失わないためには強くなるしかない。
心がその言葉に反応した。強くなれば、こんな胸の痛みに、煩わしいほどの痛みに惑わされる事も無くなる。
ああ、強くなりたい。誰よりも強くなりたい。
口に出せばそれは体中を駆け巡り、心すべてが満たされる。
「強く、ならなきゃ…」
立ち上がり、顔を上げた時には太陽が傾き始めていた。それでも輝き光るそれを、睨み付けるように見る。視界を遮るもの全てが煩わしい。往くべき道を眩ませる太陽は嫌いだ。強くなろうとする自分の道を妨げるもの全てが嫌いだ。
「こんな世界、大嫌いだ」
もう泣きはしない。代わりにその感情全てを強さに変えてやる。
―――この世界を統一させるという作戦は一旦白紙になった。予測できない強さを持つこの世界の人々に、上層部がその影響力を危惧したからだ。撤退が伝えられても誰一人異論を唱える者はいなかった。指示に従い速やかに帰還する。自分も何も思わなかった。もう、何も考えない様にしていた。
本国に帰還してからは、強くなる事にしか興味が無くなった。色褪せる景色も気にせずただ強さだけを目指して突き進み、あの世界での出来事を忘れるように、思い出す事すらせずに過ごした。
そして、いつしか強さの象徴である幹部という地位を手に入れ、再びこの世界へ赴く頃には、そんないろんなことは忘れてしまっていた。
――――――
「…あぁ、そっか」
緩やかに覚醒していく意識。夢に見た光景は、自身すら心の奥底に閉じ込めたまま忘れてしまっていたことだ。彼の祈りも言葉も温もりも忘れていた。
「なんで、思い出したんだろう…」
今なら受け止められると思ったのだろうか。あの時は潰れそうになる心が拒絶するかのように拒んでいたことを、夢なんて形で見せてきた。まるで心の整理をするように。
夢は記憶の整理。そんな一文が頭をよぎる。
涙の後が残る頬に、もう一度雫が通り過ぎた。
――――――
「冬休み、終わっちゃったね」
「そうね。でも、遊び尽くした気がするわ。すごく充実してた」
「まあそりゃあいっぱい遊んだけどさーもっとみんなと遊びたかったなって」
「ラブはどれだけ休みがあっても満足しなさそうね」
「だってどれだけ遊んでも、もっとみんなと一緒にいたいって思うんだもん!」
太陽のような笑顔で笑いかけられれば、自然とこちらも頬が緩む。久々の学校への登校は、雪の残る風景なんて関係ないくらい暖かなものだった。
「なんか今日ね、ブッキーの通ってる学校から先生が来て全校生徒に話するんだって」
「ブッキーの学校から? こういう時ってもっと遠くから来てもらうのかと思ってたわ」
「うーん…普通はそうなんだけどね。なんか今回は特別だってさ」
「特別って何がかしらね?」
いきなり授業じゃなくてよかったー、なんて言いながら伸びをするラブに、寝ちゃだめよ。と言えば善処しますと返ってくる台詞はいつものもので、いつものように寝てしまうのだろうと思い苦笑いする。
午後から始まるらしいその講話は、昼休みの今においてもその話題を持ち出す人があまりおらず、授業ではないということだけが生徒たちの関心を寄せていた。
「あ、職員室行かなきゃだったの忘れてた…」
「ええ?! 急いで行きましょ!」
「えっ!? せつなは教室に戻ってていいんだよ」
「ほら早く!」
「聞いてないしー!」
一人だけ教室に戻るなんて嫌だもの。とは言えず聞こえないふりをしてラブの手を引っ張った。
職員室にはさすがに一緒には入れないので、扉の横で壁に背中をあずけてラブの帰りを待つ。時々忠犬っぽく見えるんだよねとクラスメイトに言われたのを少し思い出した。
がやがやと生徒達が織りなす音が校舎中に響いている。この音も自分は大好きだった。自由な音楽たち、のびのびと過ごし楽しんでいる気持ちが伝わってくる。だから、
「すみません騒がしくて」
なんて声が聞こえれば眉も寄ってしまうのは自然なことで、騒がしいなんて誰がそんなことをときょろきょろ見渡してもその姿は確認できない。
「いえ、子ども達が楽しんでいるのが伝わってきてこちらも楽しくなってしまうくらいです。いい学校なんですね」
褒める言葉に心の中で相槌を打つ。会話はそれからも続き、どうやらそれは職員室の隣にある校長室からだと気付いた。校長室には時折お客が来ていることを思い出し、もしかしたらこれから講話をする講師かもしれないと推理した。他の生徒とは違い、自分の知らない話をしてくれる講話の時間が自分は嫌いではない。だからどういった人が来ているのか気になって耳をすませる。
「――…ここまでいらっしゃるのに不便はありませんでしたか? 私共の校舎にはまだ行き届いていない部分もありますし…」
「いえ、大丈夫でしたよ。それに今でこそこんな杖ついて動きづらそうにしてますが、昔はそれなりにやんちゃでしたから支える筋力はまだ衰えてはいませんよ」
「昔は海外に住んでらしたとお聞きしましたが…今はどちらに?」
「そうですね…アメリカやイギリスのように大きな都市に居る事もあれば、この街よりも小さな場所に滞在していたこともあります。今は、近くの学校で牧師としてお世話になり始めたところです」
「そうですか…お若いのに見聞が広いのですね。今日は生徒達にそういった所もお話しいただけると、子ども達も聞きやすいと思いますので、お願いいたします」
「いえ、こちらこそこういった場を提供して頂けて嬉しく思います。たくさんの人に聞いて欲しいですから。まあ、あまりに難い話では子ども達は飽きてしまいますからね。善処します」
優しそうな声。朗らかに笑う声に、何故か喉が詰まった。
会話から足に不自由があり海外を飛び回る牧師であるとわかり、今回は海外の話も聞けるかもしれないと更に興味が湧いた。
「授業までまだ時間もありますし、ゆっくりしてください」
「有難うございます。ですが、我儘を許していただけるなら学校を見て回っていてもいいでしょうか? この学校に触れたいので」
「ええ、構いませんよ。ですが申し訳ありません。これから急遽持ち上がった件で私は席を外さなければいけなくなりまして、学校の案内ができないのです」
「お構いなく。気ままに見て回りますから。それに実は昔から先生と呼ばれる方々には緊張してしまうんですよ」
「いえそんな! 別の者を連れてきますのでお待ちください」
そんな言葉を最後に横の扉が開かれる。急に扉が開くものだから思わず小さく声をあげてしまった。それに気付いた校長先生の眼が自分を捉え、数秒見つめ合ってから閃いたように笑顔を向けられる。なんとなく嫌な予感しかしない。
「君は確か東せつな君だったね。二年生の」
「はい…覚えていてくださったんですか?」
「私は全校生徒の顔と名前は憶えているよ。君は転校生だから余計にかな」
「そうなんですか」
全校生徒を覚えているとは素直に驚いた。この学校がのびのびとしているのはこういった生徒想いの先生がいるからだろう。
「ところで東君、君は今ここで何をしているんだい?」
「クラスメイトが先生に呼ばれたのでその付き添いです」
「そうか。では今君は暇しているということでいいのかな?」
「え…はい、まあ…」
なんだかよろしくない気配がする。これはそう、先生にプリントやノートを持っていってくれと言われる時の様な。
「では、君に一つ頼みごとをしたいんだがいいかな?」
「…はい」
ずるい。この聞き方ははいと言うしかないじゃないか。
「午後にある講話の講師の方に学校を案内してほしいんだ。少し足をご不便なさっている方だから支えになってあげて欲しい。頼んだよ」
そんな事を言われ、中に戻っていく校長先生はトントンと話を進めていく。いくら先生だと緊張するからといって自分をチョイスするのはどうだろうか。普通こういうのって生徒会長の役目ではないかと思わなくもない。
「では、私は失礼します。この子が先程言った案内役の子です」
「ひ、東せつなです。よろしくお願いします!」
急いでいたのだろうかそのまま職員室へと入っていった校長先生を少し恨めしく思う。突然でしかも初対面の人に緊張してしまいろくに顔も見ずに頭を下げた。
だが、いつまでたっても返事が返ってこない。いきなり気分を害するような粗相をしてしまったのではと不安になり、意を決して恐る恐る顔をあげた。
言葉が、出なかった。
目の前の男の人は両目を零れんばかりに開き、唖然とした顔をしている。自分もそれに負けないくらい呆気にとられた表情をしていることだろう。
記憶より少し垂れた目元に変わらない落ち着きを纏う気配。
一ミリも体が動かない。それは相手も一緒で同じように微動だにしない。そんな止まった世界からいち早く抜け出したのはあちらだった。両目は細められ、慈しむような泣きそうな顔をしたその人は、
「初めまして……夢を見ることを諦めずにいてくれたか?」
優しく問いかける。自分はそれにこくりと一つ頷き、
「この世界が優しかったから」
そんな言葉を口にした。
最終更新:2016年03月05日 08:40