優しい世界(前編)/そらまめ




「ごめんな…この世界は、みんなに優しくはないんだ。幸せに溢れているかもしれないけど、それを受け取れない人だっているんだ。君ぐらいなら友達と日の当たる場所で遊んでいる頃なのに、こんなことさせてごめん。助けてあげられなくてごめん。優しくない世界でごめん」

震える声で、強い力で抱きしめられる。触れた場所から熱い想いが伝わるようで、こちらが焼け溶けてしまいそうな想いの熱が、体中に駆け巡る。
人の体温はこんな焦げ付くように焦がれる事もあるのだと、初めて知った。初めて知れた。それが嬉しくて、喉の奥が熱くなった。


目を開けて見る朝日が、眩しい。潤む瞳に映る天井が歪んでいて、泣いたんだと気付く。
おぼろげな夢の記憶の中、抱きしめられた腕の感触だけは、はっきりと覚えていた。





まだ暗い部屋の中、デジタル時計は5時を指す。カーテンの隙間から零れる朝日に目を細めながら体がぶるりと一度震えた。吐き出す息は白い。
冬がやってきたのだと、ラブは言っていた。
雪が降ったら雪だるまを作ろうだの、どちらかの部屋に炬燵を作るべきなんじゃないかとか、そんなことだったような気がする。ラビリンスに冬なんてものはなかったから、目を輝かせて話すラブの横で、雲の隙間に隠れる太陽を恨めしそうにみてやったっけ。
…本当に、なかったかな。
凍えるような刺す痛みを体験した事。





――――――…

酷い戦いだ。
長年こういう場に身を置いた自分でもそう感じる。
これは戦争なんかじゃない。一方的な侵略だ。
弾けて燃え上がる戦車、弾幕のように立ち上る黒い煙、閃光弾のように光る弾道が、視界の端で流れ星のように軌道を描いて落ちていく。ずり落ちそうになるヘルメットを親指で押し上げて、空を見上げた。
星なんて一つも見えやしない低い低い空は、ここではいつだって曇天だ。
今日も、この舞台から降りた人がいる。自分が引退するのは、いつなのだろう。できれば、暖かい日がいい。こんな、曇る空から灰色の雪が落ちてくるような日ではなく。
肩に食い込む銃器が軋むように一つ音を鳴らした。この寒さだ。メンテナンスをしなければ弾道が狂ってしまう。
さて、今日も生き残れた事に、いもしない神様に感謝の祈りでも捧げながら手入れでもしようか。
そんな事を思いながら、見ていた場所に背を向け瓦礫の道を歩いた。いや、歩こうとした。
それができなかったのは、瓦礫しかないはずの視線の先に、一人の少女が立っていたからだ。片手に鈍く光るナイフを持って。
この場には不釣り合いな姿をした女の子は、この場に相応しい暗い目をして見ている。
空を見上げる横顔は、この灰色の雪をどう思っているのだろう。一人佇むその姿は切り取った写真のように頭に焼き付いているのに、その存在は今にも消えてしまいそうな儚さを感じる。曖昧なのにはっきりとしていて、まるで神の使いのような、そんなよく解らないものに重なって見えた。


灰色の雪が、溶けることなく地面を染める。
景色が次第に色を統一させ変わっていく中、少女と自分だけが、変わることなくそこにいた。





――――――

「初夢?」
「そう。新しい年になってから一番初めに見る夢」

学校帰り、夕日を横目にラブと歩く河川敷でそんな話になった。日が傾くと途端に寒くなってくる風に肩を震わせマフラーに顔を埋める。
夢というのは記憶の整理だとどこかで聞いた事があったとぼんやり考えている間にも、ラブは丁寧に初夢について教えてくれた。

「えーっと、富士山と鷹とナスの夢を見ると縁起がいいって言われてるんだよ」
「富士山と鷹とナスが登場するってどんな話なのよそれ…」

何が起きたらこの3アイテムが夢の競演を果たすのだろう。全く想像がつかないので自分は縁起の良い夢は見られそうにない。

「でも夢って起きてから少しするとすぐ忘れちゃう事もあるし、自分が見たいと思ってる夢って中々見れないんだよねー」
「ラブは見たい夢あるの?」
「よくぞ聞いてくれたよせつなっ! あのねあのね! まずはカオルちゃんのお店のドーナツを全種類制覇して…」
「あ、やっぱりドーナツなのねラブは…」

この後家に帰るまで延々とドーナツの魅力について説明された。








――――――…

「たった一つの想いで世界は変わるなんて言うけどそんなのあるわけない。でも、変わることもある」
「言ってることが矛盾してるけど」
「世の中の何かが変わる事はないけど、一つでも強く想うものができたなら、それは、自分の世界を容易く変えてしまえるんだ。そういうものなんだよ」

後から思い返すとロマンチストな人だったと思う。当時はロマンチストなんて言葉は出てこなかったから、代わりに夢見がちな意味の解らない人という感想を目の前の人に贈った。そうしたら愛想笑いのように引き攣った頬を掻きながら頭上で撫でられていた手がギシッと止まったっけ。

「そ、そんな事は置いといて…今回の供給に珍しい食材があったぞ。ほら」

そう言って見せたのは袋に入った三センチほどの肌色をした何か。その形状はまるで…

「…さすがに虫は喜べない」

こんな時に好き嫌いはダメだと分かってはいるが、それを嬉々として舞い上がれるほど上級者にはなれていなかった。

「違う違うよく見ろ。パスタだ。フジッリって言ってな、ボルトみたいにねじってある短い種類なんだ。今日も寒いからな。これであったかいもの作ってやるぞ」

幼虫の類ではなくれっきとした食べものであったことにほっとしながら息を吐いた。嬉しそうな表情で食材を見せる彼になんとなく逸らしていた視線をちらりと戻すと、一瞬、ここがとても暖かい場所に思えたが、彼の背後にある小窓から見える景色は灰色に染まっていて、ここはそういう所なんだと気付かされる。

だけど、その日の夕飯はとても暖かかった。

なぜ自分がここにいるのかなんて自分でもよくわからない。いや、この土地にいる意味は理解している。だが、こうして現地人と共に過ごしていることの意味が自分には理解できていなかった。
この世界に自分は任務でやってきたはずだ。メビウス様の命により世界の統一を図るためだ。その作戦の一員だった自分は、あの日任務を遂行していたら、彼に拾われたのだった。彼の方は自分を戦争孤児だとでも思っているのだろう。家に招き、こうして一緒に暮らし寝食を世話してくれる。なんてお人よしなんだと思った。ごつごつした傷だらけの手で頭をぐしゃぐしゃと撫でられた時に、ここにきて初めて人の温かさに触れた。だからだろうか、手をひかれた時拒めなかったのは。

「じゃあ行ってくる。いい子にしてるんだぞ」

そういってぐしゃっと頭を撫でるのが、この人が扉を開け出ていく時のいつもの動作だった。

「子ども扱いするなっ!」

そっぽを向きながらそう言っても、二カッと笑い出ていくのだ。いつもそうだ。そうやって閉まる扉を見つめて、自分も支度を始める。フード付きの真っ黒のコートを羽織り、目深く被る。
いつものように彼が行く先を追いかけて。



――――――

「せつなって雪見るの初めてだったりする?」

初雪が空からはらはらと舞ってくるのを見続けていたらそんなことを聞かれた。その時自分は即答できなかった。どうだったかしらと困ったように笑うと、ラブはそれ以上追及はしてこなかった。初めてではないが、こんな高い空からゆっくりと落ちてくるのを見たのは初めてだった。どう答えていいかわからなかった。曖昧とした記憶がよぎるが、それを言葉にするのはひどく難しかったから。それこそ夢のように儚くおぼろげなものだったから。

「冬といえばスキーよね」
「炬燵にねこじゃない?」
「えーやっぱり寒い日と言えばおでん! あとはーお年玉でしょーおせちにお雑煮におもちに…」
「ラブ食べ物ばっかりね。しかも正月の」
「違うよミキたん! 他にはかまくら作ってそこでおもち焼くんだよ!」
「結局食べ物じゃない…」

冬といえばというお題に口々に出てくるものたちの名前を、せつなは半分程度しか理解できていなかった。時折せつなは?と聞かれると、しばらく考えてから寒いことかしらと当たり前のことを述べるにとどまった。
冬の季節になったらしい今は、そこかしこに来年に向けてのあれこれが伝えられるようになった。テレビのCMでは鍋を囲むシーンが多く、ラブのように正月向けのものでは家族団らんが強調されていた。
寒いと人恋しくなるとは聞くが、それはどこにいっても同じようで、家でラブに抱き付かれることも増えた気がする。ラブに関していえば、シフォンやタルトを抱っこしながら部屋でゴロゴロしていることも多く、暖をとっているかのようだと見かける度に思うのだった。
だからだろうか。あんな夢を見たのは。





―――――――…

「あー寒い!!」

ドアが開いた音がした後に聞こえてきた声に近づくと、頭や肩に乗せた白い雪たちを手で払う彼がいた。今日は一日中雪が降り続いており、深々と降る雪の音が無機質な鈍音をかき消していたからか、いつもより静かな戦いが行われていたように思う。
そんないつもとは少し違っていても、自分のやることはいつも通りで、そのことに少なからずうんざりしたことは、自分の中の奥底に仕舞いなかったことにした。居心地が悪くなるように感じたから。それがどこに居ることに対するものなのかはまだわからなかった。

「寒いなら風呂に入ればいいだろう」

なんていいながらタオルを放り投げれば、眼を細めた顔でそれを受け取ってガシガシと頭を拭いているのを窺い、小窓に視線を移した。白い白。ここでは少し灰色に見える景色に普段の曇り空と変わらないように思えて、ここでの夏を想像できなかった。

「寒いが腹も減ったんだ」
「なら食べればいいだろう」
「でも寒いんだ」
「どうしろと」

しばらく考えるように唸った彼は、おっと思いついたようにずんずんとこちらに歩き、なんか距離が近いなと思った時には両腕の中に閉じ込められていた。

「あー子供の体温はあったかいなあ」
「うゎっ何をする! っていうかつめたっ! おいはなせ!!」
「はははっ! 貴様も外の寒さを味わうがいい!!」
「やめろっ!」

雪の冷たさもさることながら、彼の体温はひどく冷めていて腕からいつもの熱は感じない。
なのになぜか暖かく思えて腕の中から本気で逃げ出そうとも思えず、しばらくそうしていたら借りてきた猫みたいだなと笑いながら言われる。それがなんでか気に障ったから思い切り足を踏んでやった。
男はそんな攻撃に動じることなく、なのに途端に静かになったことに疑問を感じ、自分よりはるかに高い彼の顔を見るため顔を上げようとした瞬間、言葉が降ってきた。

「今日俺の上官と部下がいなくなったんだ。上官の方はこの間部隊のトップになったばかりだった。部下はここに来た時から一緒だったんだが、あいつはよくドジするやつで目が離せないやつだった。けど俺を慕ってくれてた…ふたりは、せめてあったかい日に送り出してやりたかったなあ」

思わず見上げると、天井を見て、どことも知れぬ場所を思い返すようにポツリポツリと言葉をこぼす。いつもと変わらない顔でいつものような口調で話すこの姿を見るのは初めてではなかった。時折こうして独り言のようにするのは、彼の中で処理しきれない現実だったからだろう。表面にはだせないやるせなさを、明日に残さないための作業をしているのだとぼんやり思う。こうして話を聞く度自分は何をするわけでもなくだまっているしかなかった。だってその人たちを退場させたのはきっと自分の仲間の誰かだから。だから代わりに眼を閉じて言葉一つ一つを胸に刻む。忘れないために。

「どうして兵隊なんてやっているんだ?」
「ん? なんだお前が俺のこと聞いてくるなんて珍しいな」
「別に。気になっただけだ。こういうことするのあまり好きそうに見えないから」
「ははっ、こんなん好きな奴なんてよっぽどジャンキーじゃなきゃいねーよ」

笑いながら否定するその顔も、好戦的ではないと感じる。どちらかというと温厚で、聖職者というにはガサツかもしれないが、こんなことをしているよりはしっくりくる。

「そうだな。こんな銃持って泥だらけになってるのは…なんか、かっこいいだろ?」
「は…?」
「誰かのために命がけで戦うなんてヒーローみたいじゃないか。俺昔から憧れてたんだよ」

そんな理由で続けているとは中々に酔狂な奴だ。まさかヒーローになりたいからとは、自分ですらそんな子供の落書きの様な夢を抱くこともないのに。どうやったらこの男のように曇ることの無い想いを持ち続けられるのだろう。折れずに曲がらずにいられることの難しさを自分は既に知っている。折れるものすらなくなった心には、その落書きの様な夢は重過ぎる。
ここに来てからは同じ光景を見ているはずの眼が、自分とは違い遥か遠くを見ているような気がした。

「誰かのために全力になれるってのは楽しいぞ。それが自分が大切にしたいと思えるものの為なら尚更だ」

お前にはまだわからないかもしれないけどな。と言いながらごつごつの手で撫でる。子ども扱いされていると思っても、実際自分にはよくわからない。大切なものの為とは、メビウス様のような存在だろうか。でも、男の顔が語る大切なものは自分が思っているものとは違う気がした。また、理解できない。
冷たさに解放された後、いつもより遅めの夕食を摂る。テーブルに向かい合うように座り、カチャカチャとスプーンの音が部屋の壁を叩く。しばらくの間食器が重なり合う音しかしなかったが、そうだ、と何か思い出したように話し出す男に、視線はそのままに耳を傾ける。

「明日は、今までより大きなものになると思う。上の奴らがそんな動きをしてる。どんなことしたって、今回のは負け戦なのにな。あれは、今の俺たちじゃどうしようもないってわかってるはずなんだがな」
「なら、降参したらどうだ?」

そうしてほしかった。ラビリンスとしても今の戦いは予想外に長引いているらしく、上層部でも会議が行われていたのを知っている。なにも殲滅したいわけではない。従うのならそこで終わりになるだけで、民が終わるわけではないのに。
そんな想いは当然告げられないが、疑問に思ったことを率直に聞く。ここでの科学力がラビリンスに敵うわけない。
男は一瞬驚いた後、悲しそうに眉を寄せ笑った。

「そうだよな。お前くらいの子でもそんなことわかるよな。でもな、もう今更後に引けないんだよ。今までにいなくなった奴らにも顔向けできないし、この国にいる奴も納得できないんだ。だから、誰もが解ってるのに言えない。止められない。進むしかないんだ」

その先が誰もがわかりきった悲惨であっても。最後は消え入りそうな小さな声で、注意していなかったら聞き漏らしていたものだった。口に寄せていたスプーンを思わず下げる。
驚きで見開いた眼が、彼の悲しそうな眼とぶつかる。その奥に何の感情があるのか読み取れなくて、そんな瞬間の邂逅に、堪らなくなって逸らした。
いつもそうだ。逸らすのは自分で、それが事実を隠していることの罪悪感からくるものなのかはわからないが、見ていられなくなるのだ。そうしなければ自分は何かを失ってしまう気がしたから。

だから、明日は遅くなるかもしれない。
そんな言葉が耳を掠めた。



「じゃあ、行ってくるな」
「…ああ」

いつものように頭を撫でるごつごつした温もりはいつも以上に長いもので、見上げれば慈しむような眼で見ている。胸の内から湧き上がる感情をすんでの所で蓋をした。
ドアが閉まる音がする。いつもならその音と同時に動き出すのに、今日は出来なかった。しばらくその場から動きだせなかった。










―――――

「せつなー! 雪だよ雪! かまくら作ろう!」
「…え…?」

寝起きには少々辛いテンションでパジャマ姿のラブは勢いよく扉を開ける。未だ理解が追い付かずぽわぽわした頭に、シャーとカーテンの開く音がして、同時に痛いくらいの太陽が部屋に降り注ぐ。思わず眼を細めた。あまりの眩しさに窓の先に光る白しか見えなかったが、少しすると慣れたのか向かいの屋根が目について、数十センチの厚い白の壁が乗っていた。

「こんなに積もるなんて珍しいんだよ! 早くしないと溶けちゃう!」
「待ってラブ。こんなに積もってるんだからすぐには溶けないわ。まずは朝ご飯食べてからにしましょう? 今出掛けたらおかあさんにも怒られるわよ?」

怒られるという言葉にうっとつまった声を出し、しぶしぶといった感じで着替えて下にいくね…と部屋を出るラブを見送る。その背中はいつもより丸くなっており、しょんぼりという言葉を背負っていた。
台風みたいなラブを見送り、閉まるドアに一つ息を吐き出した。改めて窓を見ると、チカチカと光る雪が眼に入る。ベッドから出て近寄れば銀世界というにふさわしい風景が広がっていた。この光景を見てラブは驚きと興奮で湧き上がったのか。雪だるまやかまくらを作ろうとうきうきと嬉しそうに。
自分はまったくの逆だった。暗い想いが心を満たしていく。いつかの光景に重なって、眼が眩んだ。









―――――…

外に出ると、珍しく青空が広がっている。ここしばらく雪が降り続いていたため、そこかしこでキラキラと輝く雪の白さが目立ち、反射で眼が痛んだ。フードを深く被り直し、ザクザクと音を立てながらいつものように目的の場所に向かった。
今日は、いやに遮蔽物が多い。壊れたビルや店が並ぶ、通常なら賑わっているであろうそこは、この街の中心部であり、敵の本拠地も近くに存在している。そこまでラビリンスの侵攻は進んでいた。きっとここを潰せば戦闘不能にできるのだろう。そんな戦いの場所で、誰の合図でもなく一つの甲高い空音が響く。どこまでも続く青空の下、壊すための戦いが始まった。




耳につけたイヤホンから絶えず指令が聞こえる。無線で拾う音は時折ザザっと不快な音を混ぜながら、それでもその声を取りこぼす事の無いよう耳を傾ける。

「R3へ移動だ急げ!」
「B1は塞がれている! 別ルートにしろ!!」
「ⅹ地点からの反応途絶! K地点から応援要請が!!」
「何言ってんだ無理に決まってるだろっっ!!」

怒号のように飛び交う言葉とそれ以上の発砲音と足音、崩れるモノの音。
数十メートル先の標的を狙い引き金を引き続け、その隙に仲間たちが後方へと下がる。崩れたビルの塊を盾にしても時折弾丸が頬や頭上を掠め、雪が巻きあがった。
後退後退といつもみたいに攻め込まれているが、今日はそれにも限界がある。自分たちの背後のその先には中心があるのだ。引けない。
弾薬が尽きそうな一歩手前でカートリッジを荒い手つきでねじ込んだ。
新しく装填し銃口を向けると同時に、後方から凄まじい音と風が巻き起こり、戦車からの砲弾が数百メートル先に着地し爆発した。
が、少しの沈黙の後、何事もなかったかのように再び激しい弾丸の雨が降り注ぐ。

「ちっ! 戦車でもダメなのかよっっ!!」

隣にいる仲間が吐き捨てた言葉に、今更な話だと頭の中でつぶやいた。銃も戦車も効果が無いのは、これまで他の地で戦闘していて立証済みだ。それでも同じ手を使うのは、そうせざるおえないから。他にもう自分達には手が無いのだ。戦車でも勝てない相手にこんな銃をいくら撃ったって無駄なのに、それをするしかない自分にも歯がゆさを感じた。
解析不能な性能を持つ武器を使い確実にこちらの戦力を削っていく。たった一つの銃器でもこちらが倒すその数倍の数を打ち落とすそれ。中には単体で刃物を持ちこちらに迫るものもいた。それなのに、敵わない。戦闘力がまるで違った。遠目からしか見たことがないが、ナイフ一本で次々と仲間を倒すその姿は、ロボットの様な正確さで急所をついていく。言葉一つ発する事のないその姿は不気味だった。誰も彼もが真っ黒な装いで、自分たちは「死神」と呼んでいた。

「見ろっ! 死神がいるぞ!!」
「距離をとれ!!」
「くっ…速すぎる!」

凝らす眼の先で黒い何かが動いている。一面白に覆われた中でそれは際立っていた。的にしてくれと言っているかのようなそれに銃口を向け撃つが、何故か当たらない。全てを紙一重で躱していく姿に、あいつにはいくつ眼があるんだと慄いた。
何度試みても当たらない銃弾に舌打ちを打つ間にも確実に近づいてくるそれ。そんな時ふと気付いた事があった。
距離が遠いから小さく見えていると思っていた。だが違う。いくら近づいてきてもその背格好の縮尺が変わらない。子供のような背、いや、ようなじゃない。子供だ。大人には程遠い小さな姿に、その事実に気づいた瞬間撃つことをやめてしまった。

「ぼーっとすんな! そんな暇あるなら引き金引けっ!!」

仲間の言葉にはっと我に返りグリップを握りなおす。全てが決まっているかの様に乱れることの無い動き。踊るというには自由さが無いのにどこか気品を感じる。知らずに呼吸が乱れた。黒装束が持つナイフが、あの日持っていたそれと、その姿が儚く消えてしまいそうだった少女と重なり脳裏をチリチリと焼いている。



どこかつかみどころのない少女だった。野良猫のように気ままでふらりと身軽。気付いたらいなくなっていて、家中を探しても見つからなかったのに、最初からそこにいましたとでもいうようにソファーで丸くなっていたことも何度もあった。少女がどこの誰かなんて知りはしない。それほど短くない時を共に過ごしたのに、今の今まで聞くことも聞かされることもなかった。
独り身の自分にとっては反抗期の娘が突然できたみたいで、ともすれば妹の様な、もっと言えば飼い猫の様な、兎に角そんな気がして、自分もそういう歳になったのかと少し頭を抱えたことは記憶に新しい。
何者かなんてどうでもいい。ただ、心地が良かった。生死をかけるギリギリの精神を続けていても、家に帰れば普通の生活に戻った気がしていた。
ただ、少女が時折見せる暗い眼を見る度どうしようもない焦燥感に襲われた。自分ではその閉ざした心を、縛られている何かから解放してあげられないのだろうかと。ヒーローになりたいなんて仲間に言っても笑われた夢を、驚いたように見たその眼を自分はきっと忘れられない。羨望が混じって、それ以上に諦観が見て取れた。
なんて顔をさせてしまったんだろう。こんな少女に夢を見る事を諦めさせた世界に腹が立った。ヒーローなんて言っても少女一人の心も救ってやれないだなんてお笑いだ。自分がしたいのは無意味に引き金を引くことじゃないのに。
―――この世界は、なんて優しくない世界なんだ。

「おい! あいつに近づかれたら終わりだ!! ラインまで後退して距離をとるんだ!」

そんな怒号の様な誰かの声に次々と走り去っていく仲間。少し遅れながら自分も駆け出した。だが後ろを向いたら終わりなきがして銃を撃ちながら後退する。その間にも狭まる距離に焦る弾道。そんな乱れた銃弾の一発が黒の頭を掠めた。その衝撃でフードがめくれあがり、その下に隠れていたであろう銀髪が目に留まる。それは周囲の雪景色のように白く、黒の中でひと際眼を惹いた。肩口で踊るその毛先に、チラリと覗いたその眼に、一瞬触れ合う。
そんな瞬きの間に相手のナイフがこれでもかと近づいて、右眼に向かって横振りされる。

ああ、これはもう終わった。

諦めかけたその瞬間、周囲で雪が空へ舞い上がった。
建物が不規則に並ぶ街で時折起こる旋風に、辺りが白く染まる。
バサバサと相手のコートが激しく揺れる音がした。あまりの強風に自分の深く被るヘルメットもズレる。
数秒の後におさまったそれから解放されると、眼の前には銀をなびかせる髪の毛が。フードは完全にとれていた。

「っ……」

喉からは声にならない掠れた音しかでなかった。その眼をまともに浴びるのは初めてだったが、そこにいつもの感情はない。だが、次第に開かれた両目に、戸惑いが現れた。
ガシャっと右手からこぼれたグリップが胴体に少しの衝撃をもたらす。体にかけたベルトにつながれた銃器が空中で左右に揺れた。

「なんでここに…おまえ…」
「…いつか、こうなるとわかっていたんだがな…」

辺りは後退したせいで二人の他に人はいない。静かな声も耳に届く。
ナイフが遠のいた。力なく下ろされた腕に、その動作ひとつも体によく馴染んでいて、自分たちを悩ませる死神という文字が頭の中で強く響く。

「騙していたこと、謝罪はしない。この手で終わらせてきたことに、後悔はない。私の行いはメビウス様の為だ。全て私の意思だ」

ひとつひとつの言葉に、全くといっていいほど説得力がなかった。今にも泣きだしそうに声を震わせる少女の言葉の何を信じろというのだろう。
奥歯を噛み締めすぎてギシリと不快な音がする。それでもやめられないのは、そうしていなければこちらが泣いてしまいそうだったからだ。

「だが、貴様には短くとも寝食を提供された借りがある。だから、この場で終わらせるのは止めてやる。はやく視界から消えろ」

そう言われてもだらりとおろした両手がグリップを握る事はない。代わりに両手を拳にしぐっと力を込めた。
腹が立ってしょうがない。彼女にではない。自分に。この場にいる事が恥ずかしくすら思えてきて居た堪れなくなった。
全ての負の感情を背負う覚悟をこの子はもうしている。それなのに自分は何だ。こんな銃持って誰を守ってるって言うんだ。動き出せない、声をかけられない。なんて言っていいかもわからない。

情けない。

「…そこで呆けていたいというのなら止めはしない。だが、ここも戦火の渦中だということを忘れるな。そのままそこにいたのでは、私がここで見過ごす意味も無くなる」

せいぜい五感を働かせるんだな。そう言いながらこちらに背を向け歩き出すその小さな背中に思わず手を伸ばすが、それは彼女の服にすら触れる事なく宙で彷徨った。

後から合流した自分に仲間はとても驚いていた。死神にやられて帰っては来ないと思っていたようで、どうやってあいつから逃げられたんだと質問攻めにあった。それにどんな返答をしたのかは正直覚えていない。ただ、気付いたら自分の家の前まできていた。
あの後止んだ攻撃にあちらが恐れをなしたんだと大いに沸いていたが、真偽は定かではない。ただ、自分は今日を生き残れたということだけが事実で、真実で、帰った先に明かりの無い家しかないことは確信していた。



競3-23