【そして二人は扉を開ける。】/れいん




 タタタタッ!

 はやる気持ちが、走る速度をあげさせた。
 知らない街、知らない人々。
 でも、怖くはない。
 だって……。

(きらら!)

 もうすぐ会える。
 会えたら、何を話そうか?
 走っているせいなのか、それとも、じきに会える喜びからか、心臓が激しく震える。

 会える。
 会いたい。

(……早く!)

 ホープキングダムに平和が戻って十年。
 会うのはそれ以来、久しぶりだ。

(変わっているかしら?)

 否、きっと変わっていない。
 きっと十年前のように、夢を追いかけキラキラと輝いているに違いない。

「きらら!」

 ようやくたどり着いたアパルトマン。
 そこは、きららと別れるときに、「もしも、またこの世界に来られるようになったら」会いに来てと、手渡された住所だ。

『C'est de la part de qui?(どちら様ですか?)』

 けれど、インターホンから発せられた声は、きららの声ではなく。
 聞いたことのない、理解できない言葉だった。



【そして二人は扉を開ける。】



 透き通るように白くて、柔らかな肌。
 頬は丸くて、やや赤みを帯びている。
 傍に寄ると、独特の甘いミルクの香りがして。
 抱くと、クニャリと頼りない。
 トワは慌て、隣に立っていたカナタに助けを求めた。
「と、とても可愛いですわ」
 カナタの腕に戻り、安心しきったその寝顔を、しげしげと眺める。
「肌の色は、奥方様似ですわね。でも、目元はお兄様にとてもよく似ていらっしゃるわ」
 王位を継承した兄の第一子は、王国の、新たな希望だ。
 兄を支え、国民の笑みを絶やさないために今まで頑張って来たけれど、その役目はもう、この子に引き継ぐべきなのかもしれない。
 そんな考えが、近頃トワの頭を支配していた。
 決して卑屈になっているわけではない。
 もちろんこれからも、王族としての責務は果たしていくつもりではあるのだけれど、正直なところ肩の荷が下りた感はある。
「トワ、本当にいいのかい?」
 彼女の思考を読んだように、カナタが心配げな眼差しをトワに向けてきた。
「王位継承権のことですの?」
 カナタは、「そうだ」と言うように、深く頷いた。
 ホープキングダムの王位継承権は、国王に子供が生まれた時点で、世代交代が行われる。つまり国王の兄弟、姉妹は、その権利を永遠に失うことになる。
「もちろん構いませんわ」
 特に野心があるわけでもない。
「むしろ、肩の荷が下りて、何か新しいことでも始められそうな気分ですわ」
 本心を述べて、にっこりと笑うと、カナタはホッとため息をついた。
「新しいことって、なんだい?」
「そうですわね……」
 言いかけて、ドキンと大きく心臓が揺れて。
「……まだ、考え中ですわ」
 トワは、口を噤んだ。
 ずっと我慢していた言葉が、ポロリとこぼれそうになったから。
「トワ……本当の事を言っていいんだよ」
 隠しきれると思ったのに、言葉をガマンしたせいで、代わりに目から雫が落ちた。
「わたくしは……」
 口を開くと、更に後からポタポタとそれらはトワの頬を伝う。
「……もう一度」

 ――――あの世界へ行きたい。

 言いかけた瞬間に、手の平が眩く輝いた。
(ゆめ?)
 白いシーツがフワッとひるがえる。
 それは石鹸の香りと共に柔らかく体を包んだ。
 わしゃわしゃ、とくすぐられ、トワはこそばゆくてケラケラと笑った。
 そんな風にしてふざけたのは、久しぶりのことだった。
 ディスダークに囚われて以来、笑うことなど忘れてしまっていたから。
(……きらら)
 ひとしきり騒いだ後、きららのよこした笑顔を見たとき。心臓は確かに、何かを感じたのだけれど。
 特別なのだと、感じたのだけれど。
 その意味を知るころには……。

 自分達の未来は、同じ場所には無いのだと、理解した。

「もう一度、きららに会いたい……」
 眩いと思って閉ざした瞳を再び開くと、何も起こってなどいなかった。
 兄の腕の中に居た赤子はいつの間にか目を覚まし、まだよく見えないはずの目は、柔らかく弧を描く。
 手の中に違和感を覚え、おそるおそる指を開くと……。
「これは……」
 手のひらのそれを見て、トワは目を見張った。
「ドレスアップキー……」
 それは透明の。
 まだ、何色にも染まっていない鍵。
「トワ、行っておいで」
 カナタの手が、トワの頭を優しく撫でた。
「ずっと、我慢していたんだろう? 気づいてやれなくてすまない」
「でも、お兄様……」
「確かに、ホープキングダムの民はお前を愛しているんだ。だから、過去、お前が居なくなったときは絶望に支配された」
 そうして……。
 トワがいなくなったホープキングダムは、いともたやすくディスピアの手に落ちた。
「でもね、あの時はお前の事を奪われたから、皆は悲しみに暮れてしまったんだ。お前が望んで出かけるのとはわけが違うだろう?」
 兄の言うことは理解できる。
 けれどやはり、ディスピアの罠に嵌ったのは自分だし、そのせいで、皆の希望を奪ってしまった事実は変わらない。
 だから、自分勝手にすべきではないとトワは考えていた。
「もっと自由にしていいんだよ。みんなはお前が幸せであることが望みなんだから」
 トワの気持ちを察してか、再びカナタは労わるようにトワの頭を撫でる。
「だぁっ!」
 同時に、ペチリと赤子の手の平が、トワを励ますように頬を叩いた。
「……ありがとうございます」
 何だか、背を押してもらった気分だ。
 トワはそう礼を述べて、自分の部屋に走って戻った。
 ドロワーの隅に、隠すようにしまっておいたメモを取り出す。
 そこには、トワの読めない文字で書かれたきららの住所が書かれてある。
(ここに、きららが居るのです。どうか……お願い……)
 メモとドレスアップキーを両手でキュッと握った。
 願いを込める様にきつく。


 *****


 パリの街を、足取り重くトボトボと歩いた。
 街灯に明かりが灯り始め、トワは暮れゆく空を見上げる。
 時を知らせるための電光掲示板は午後5時を知らせていた。
 鼻の奥に滲むような痛みを感じる。
 涙が出てしまいそうだ。
 会えると信じていたのに、きららの所在地は分からなくなってしまった。
 インターホンに答えたアパルトマンの住人らしい女性は、玄関先まで来て対応をしてくれたのだけれども、言葉が通じずに、何も手がかりを得ることはかなわなかった。
 トワは諦めて、感謝の言葉だけを何とか伝え、その場所を後にした。

 会いたいのは、きららだけではない。
 もちろん、はるかにも、みなみにも、ゆいにも会いたい。
 けれど真っ先に頭に浮かんだのはきららで。
 だから、一番にきららに会うため、パリの時間に合わせてこちらの世界に来てしまった。
 冷静に時差を考えると、恐らく日本は今、真夜中なのだろう。
 そう思うと、きららに会えなかったからと、就寝中である彼女らを眠りから引き戻すことは憚られた。

 もう一度会いたい。

 そう思う事は許されないことだったのかもしれない。
 夢と言うには稚拙過ぎたのかもしれない。
(罰が当たったのですわ……)
 やはり、王族としての自覚を持ち、国民のしあわせのみを考えるべきだった。
 己の細やかな望みなど優先すべきでは、なかったのだ。
 こちらに来たのだから、せめて外からノーブル学園を覗いて行こうかとも考えたけれど。
 結局トワは再びキーにホープキングダムに戻れるように願った。
 だってきっと思い出してしまう。
 きららに対して持っていた胸の疼きを。
 そして、今はもう容易に会うことすらできない、ままならない現実に、絶望してしまう。
 キーはそんなトワの気持ちを、知っているのか、優しく包むような光で、ホープキングダムに彼女を運んだ。

「トワ様~!」
 元気な声がして目を開くと、丁度パフが洗濯物を取り込んでいる最中だった。
 ホープキングダムに帰って来てしまった。
 本当に一瞬だけの出来事で、むしろパリに出向いたのが夢だったのではないかと思えてしまうほどだ。
「カナタ様に聞いたパフ! きららには会えたパフ?」
 十年たったというのに、人の姿をしたパフの容姿は変わらない。
 紫色のガラス玉みたいな瞳をくりくりと輝かせ、パフは笑顔でトワの顔を覗き込んできた。
「……いいえ、会えませんでしたの」
 言うか、言わないかのうちに、カゴに収まっていたシーツが風に煽られ、フワッと空に舞い上がった。
「あ、飛んで行っちゃったパフ! ああぁ、こっちのも飛んじゃうパフ!!」
 慌てふためいているパフに、
「大丈夫、飛んで行ったものは、わたくしがとってまいります。パフはそちらのものをしっかりと押さえていて」
 トワはそうやって指示を出し、はためくシーツを追いかけた。
(あのときは……)
 きららと二人でシーツを追った。
 何もできなかった自分に、笑い方を思い出させてくれた、特別なきらら。
(やっぱり、会いたい)
 会いたい。
 会いたい。
 ひとめだけでも良いから……。
 一度、「会えるのだ」と思ってしまった気持ちは、そう簡単には元に戻せない。
 もう、苦しかった。
 これ以上は、我慢できそうにない。

 風が勢いを失い、ひらり、はらりと、シーツは丘の方へ落ちて行った。
 それに誰かが手を伸ばし、絡めるようにキャッチした。
 逆光で、顔はよく見えないのだけれど、どうやら女性のよう。

「…………!」

 その女性はシーツをマントのように持ち、こちらに走ってくる。
 徐々に明確になるシルエットに、トワは自分の目を疑った。
 信じられない。
 そんなはずはない。
 けれど、見間違うはずはない。
「トワっち~~~~!!!」
 声を聞き、心臓が激しく鳴った。
 目から涙が溢れてきて、でもそんなことは、今はどうでも良くって、トワは震える足で走り出した。
「……きらら、きららぁっ!!」
 駆け寄って飛びついた。
 シーツごと、きららごと、トワは野原に倒れ込んだ。
「痛ぁい……、トワっち、熱烈過ぎるよ」
 トワを抱きしめたまま、きららがハハハと、痛いことは大して気にしていなさそうに笑った。
 髪が短くなっている。
 背は、伸びたみたい。
 きららの母がそうであったように、美しさに自信がみなぎっているように見える。
 けれど十年ぶりだと言うのに、その温もりは当たり前みたいにそこにあって、トワはそれがなくなってしまわないように、今一度ぎゅっとしがみついた。
「……どうしてここに?」
「会いに、来てくれたでしょ? 大家さんに聞いたんだよ。外国人の子が来たって……」
 ショーのリハーサルがあって出かけていたのだと、きららは不在の理由を述べた。
「まあ、引っ越したのではなかったのですね」
 言葉さえ通じれば、行き違いになることは無かったのに。
 早とちりを恥ずかしく感じて、今度はフランス語も学ばねばと考えてから、トワは首を傾げた。
「ところで、どうやってここへ来たのです?」
 自分は、きららに会いたくて。そうしたらキーが現れたのだけれど。
「トワっちは、自分だけが、“あたしに会いたかった”とか、思ってる?」
 そう言って、きららはポケットからドレスアップキーを取り出した。
「やっと、ステラと同じショーに出られることになったの」
 きららは大人びたのに、笑顔はあの頃のままだ。
「トワっちに見てもらいたくて……、会いたくなってね。そうしたら、手の平が光ってコレが……」
 そう言ってきららは透明なキーを軽く振って見せた。
「でもさ、その時はどうやって使うのか分かんなくて」
 少しだけ眉毛を八の字にして、きららは情けなくもう一度ハハハと笑う。
「外国人が来たって……、絶対トワっちだと思ったから。もう居てもたってもいられなくて、どうしても会いたくなったんだよ」
「わたくしは……わたくしも、きららに会いたくて。」
 十年前、離れ離れになると分かっていたから言えなかった。
 自覚した時には、もう言ってはいけないと思って飲み込んだ言葉。
 今度こそ言ってしまおう。そう思って口を開きかけた瞬間、柔らかい物が唇を塞いだ。
 驚いて、瞬いて。
 きららにキスをされたのだと理解した時には、唇はもう離れていた。
「ごめん……もう、我慢できなくてさ。あたし、トワっちのこと好きで。言えなかったことずっと後悔してたから……」
 そう言ったきららは、頬を赤らめて、困ったような顔をして俯いた。
 突然すぎる告白に、急に体温が上がる。
 こんなことってあるのだろうか?
 喜びと、トキメキと、幸せと……。
 全部が体の中には納まりきらなくて、またもや涙になって、目から溢れ出した。
「きららぁ……」
 胸の中に顔を埋めると、懐かしい、甘いきららの香りがする。
「わたくしも……」
 顔は見えなかったけれど、きっときららは微笑んだに違いない。
 だってトワを、優しく柔らかく、抱きしめた。
 心臓の音がトクトクと速くなって。それが自分のものなのか、きららの発したものなのか、混ざり合って分からなかったけれど、そんなことはどうでも良くて。
 ただ、ただ幸せで、そうやってしばらく、二人はそのままでいた。


 *****


「きらら、行きますわよ!」
「おぉ~、トワっち、はりきってるじゃん!」
 きららのアパルトマンは、独り暮らしにしては広めだった。
 だから、トワがルームメイトになったところで、何の問題もない。
「今日から、新しいことを学ぶのですもの、はりきるに決まっています!」
 新しい言語を習得することに決めた。
 それが、何の役に立つのかなど分からなかったけれど。
 そんなことは些末なことだ。
 こんなに気持ちが前を向いているのは、久しぶり。
 きららの所へ行くと言ったら、皆喜び、笑顔で送り出してくれた。
「よーし、あたしもがんばるぞ!」
 きららが両腕を高らかに上げる。

 二人で扉を開けた。

 そこに待っていたのは、夢、希望が、溢れる光の世界だった。
最終更新:2016年03月03日 23:38