幸せは、赤き瞳の中に(第2話:二兎を追う者)




 赤いカーテンの隙間から、朝の光が漏れている。せつなは久しぶりに、桃園家の自分の部屋で目を覚ました。
 普段寝起きしているベッドより、二回りも小さなベッド。部屋の中の温度も、気温そのものが一年中ほぼ一定のラビリンスと違って、変動が激しい。
 それでも、そしてこの家を離れて半年以上経った今でも、この部屋で眠る時が一番安心して心からくつろげていることを、せつなは目覚めの瞬間、改めて実感していた。

 外はもう明るいが、早朝と呼べる時間。昨夜、つい遅くまで話し込んでしまったから、隣の部屋のラブは勿論、家族はみんな、きっとまだ夢の中だろう。

 せつなは手早くダンスの練習着に着替えると、足音を忍ばせて階段を下りた。
 『朝のジョギングに行って来ます』とリビングのテーブルにメモを置いて、家を出る。
 今日は、これまた久しぶりに、四人揃ってのダンスレッスンだ。だから少し身体をほぐしておきたかったし、何より大好きなこの町を、改めてゆっくりと眺めたかった。
 せつなは、玄関先で軽く屈伸運動をしてから、通りを颯爽と走り出した。

 まだ人通りもなく、店々のシャッターも閉まっている商店街。昼間とは打って変わって静かな通りを愛おしそうに眺めながら、せつなは少しずつペースを上げていく。

(何だか香ばしい匂い……。パン屋のおじさん、もうお仕事始めてるんだわ。駄菓子屋のおばあさんも、お元気なのね。今日もお店の前に、ゴミひとつ落ちていない)

 誰も居ないガランとした通りなのに、そこに住まう人々の笑顔が、鮮明に目に浮かぶ。それが嬉しくて、自分でも気付かないうちに頬が緩んでいたせつなだったが、不意にその瞳が大きく見開かれ、足が止まった。

 通りの一角に、『新装開店!』と書かれた大きなのぼり。ビニールをかぶった花輪が、店の前に幾つも並んでいる。
 朝日を浴びて開店を待つファミリーレストラン――そこは一年と少し前、イースが生み出したナケワメーケに壊された店があった場所だった。
 しばらく更地のままになっていたのだが、ようやく新しい店を建てることが出来たのか。いや、それとももしかしたら、持ち主が代わってしまったのだろうか。

――町じゅうを、ジュースの海にしてしまえ!

 あの時の自分の声が蘇る。
 使命にかこつけて、心に巣食う衝動に突き動かされるように暴力を振るった、かつての自分。「人を不幸にする」ということがどういうことか、まるで分かっていなかった――分かろうともしていなかった、あの時の愚かな自分の声が。

(こんな私を、この町の人たちは受け入れて、笑顔を向けてくれた。だからやり直したい。精一杯頑張って、ひとつひとつ)

 せつなは、ぐっと唇を噛みしめて追憶を受け止めてから、その場所に向かって、深々と頭を下げた。そして元の通りに戻り、今度は一気に加速する。

(私は、この町の人たちのように、ラビリンスを笑顔でいっぱいにしたい。そのために、私に出来ることって何だろう。そもそも私に、何か出来ることなんてあるのかしら……)

 さっきまでと同じように通りを駆けるせつなの姿。だが、その頭の中にあるのは、今は四つ葉町商店街の人たちの顔ではなかった。



   幸せは、赤き瞳の中に ( 第2話:二兎を追う者 )



「あ、せつなちゃん!」
 日課である犬の散歩の途中で、四つ葉町公園の石造りのベンチで休憩していた祈里は、商店街へと続く通りに目をやって、明るい声を上げた。

 遠くから見る見るうちに近付いて来る、一人の少女。ジョギングと呼ぶには速すぎるスピードなのに、その走り方は実に軽やかで、まるで空を飛んでいるかのようだ。
 しなやかな獣のような美しい姿に、思わず見とれていた祈里だったが、その姿が次第に大きくなるにつれ、うつむきがちな表情が目に入ってきて、ハッとした。
 真剣に考え込んでいるように見える、何だか他者を寄せ付けないような、緊張感を持った表情――。
 祈里が心配そうに、かすかに眉を下げる。と、少女の顔がこちらを向いて、それまでとは百八十度違う、嬉しそうな笑顔になった。

「おはよう、ブッキー。早起きね」
「せつなちゃんこそ。わたしは、今日は何だか早く目が覚めちゃったの。そうしたら、この子たちにお散歩をせがまれて」
 祈里の足元でじゃれ合っていた二匹の小型犬が、せつなにワンワンと吠えかけながら、千切れんばかりに尻尾を振る。それを楽しげに見つめてから、祈里は持ち前のおっとりとした口調で言った。

「久しぶりよね~、せつなちゃんとのダンスレッスン。楽しみだわ」
「そうね。みんなとちゃんと息を合わせられるといいんだけど」
「ミユキさんの練習プランは、こなせてるの?」
「ええ、特に問題ないわ」

 四つ葉町にあまり頻繁には帰って来られないせつなのために、ミユキはダンスの練習プランを組んで渡していた。一カ月や二カ月レッスンが受けられなくても、なるべくレベルを落とさずに他のメンバーに付いて行けるよう、ミユキが何度も試行錯誤して作ったプランだ。
 最近はせつなだけでなく、モデルの仕事が忙しくてレッスンを休みがちな美希も、このプランで自主練習をすることが増えて来ていた。

 二匹の頭を優しく撫でてから、その場で屈伸運動を始めたせつなの笑顔が、心なしか硬いように見える。久しぶりに四人揃って、しかもミユキの前で踊るのだ。さすがのせつなも、少し緊張しているのかもしれない。そう思って、祈里がニコリと笑って話題を変えた。

「そう言えば、せつなちゃん。明日は、どこに行きたいの? どこか、行きたいところがあるんでしょう?」
 今日はミユキにしごかれるだろうが、明日は朝から四人で遊ぶ約束をしているのだ。
 ラブと美希と三人で相談していた時は、海や遊園地に遊びに行こうかという話も出たのだが、ラブがせつなの希望を聞いてみると、出来れば四つ葉町で過ごしたいという返事だと言う。

「ううん。ただみんなと楽しく、四つ葉町での時間を過ごしたいだけ」
「それだけでいいの?」
「ええ。そして、この町の幸せを少しでも、ラビリンスに届けられたら、って……」
「そっか。じゃあ、せつなちゃんがどんな幸せを届けたいのかで、明日の予定を決めればいいね」
 祈里の思いやりがこもった同意の言葉を聞いた途端、何故かまた微かに、せつなの顔に陰が帯びる。それを見て、祈里は今度こそせつなの顔を真っ直ぐに見つめると、柔らかながらストレートな調子で問いかけた。

「ねぇ、せつなちゃん。何か、困っていることがあるんじゃないの?」
「え?」
「何かあるなら、言って? わたしで良ければ、話だけでも聞くよ?」
 大きく目を見開いて祈里の顔を見つめ返したせつなが、それを聞いて小さく微笑む。そして少し顔を俯かせながら、言葉を押し出すように話し出した。

「この町には、幸せに繋がる楽しいことが、たくさんあるわ。ほんとに、数えきれないくらい」
 みんなでお喋りをしたり、ご飯を食べたり、ダンスをしたり。それから、スポーツやお買い物や、お祭りや……。
 ひとつひとつを、さも大切そうに、嬉しそうに数え上げてから、せつなはそのままの表情で、祈里の顔を見つめた。
「ラビリンスの人たちが、楽しいことをたくさん知って、一人一人が、自分の好きなことを見つけてくれたら、とても嬉しい。でも……」
 せつなの顔が、再び下を向く。そして膝の上に置かれた自分の手を見つめたまま、せつなはしばらくの間、沈黙した。
「……私、みんなのように、喜びや幸せを伝える自信が無いの。どうやって伝えればいいのか、よく分からなくて」

 隣からせつなの顔を覗き込むようにして、じっと話を聞いていた祈里の顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。そして祈里は、白くほっそりとしたせつなの手の上に、そっと自分の手を重ねた。
「あんまり伝えようってばかり、思わなくてもいいのかも」
「え?」
「わたしね、せつなちゃん」
 黄色と赤の練習着が、石造りのベンチの上で、そっと寄り添う。

「前に、聞かれたことがあったけど……。わたしが本当にダンスをやりたいって思ったきっかけはね。トリニティのミユキさんにダンスを教えてもらえるから、ってことじゃ無かったの」
 突然何の話が始まったんだろう、という顔で小首をかしげるせつなに微笑んでから、祈里はベンチの後ろに広がる雑木林を指差す。

「ラブちゃんの誘いを断った後にね。あの辺から、レッスンを受けてるラブちゃんと美希ちゃんを、こっそり見てたの。まだ始めたばっかりだから、ステップも全然踏めなくて、テンポだって滅茶苦茶なのに、二人ともとっても楽しそうで、生き生きしてて……。それを見てたら、わたしもやってみたいな、って思ったの」
 そう言って、祈里は目の前に広がる石造りのステージに、その穏やかな視線を向ける。まるでそこで、その時のラブと美希が踊っているかのように。

「本当に楽しそうに何かをやっている人を見たら、自分もやってみたいって思う人は、きっと居ると思う。そして一緒にやれば、もっと楽しい時間が過ごせるわ。だから、まずはせつなちゃんが、楽しんでいる姿を見せればいいんじゃない?」
「私が? でも、そんなにたくさんのこと、私一人じゃ……」
 驚いた顔で呟くせつなに、祈里が笑ってかぶりを振る。
「楽しいって気持ちを知れば、新しい楽しみを探そうっていう人も、きっと現れると思うの。そういう人が増えて行けば、きっと少しずつ、いろんな楽しいことが増えていくわ。だからね。まずはせつなちゃん自身が心から望むことをして、幸せを感じられることが、一番大切なんじゃないかな」
「私が……一番楽しめること? 幸せを、感じられること?」

 せつなが、一言一言を噛みしめるように、小さく呟く。祈里がゆっくりと頷いた時、通りの方から、せつなと祈里を呼ぶ声が聞こえて来た。
 いつもの青い練習着に身を包んで、美希がこちらに向かって一心に走って来る。
「あ、美希ちゃん。おはよう」
「おはよう。二人とも、今日はヤケに早いんじゃない?」
 美希がハァハァと息を弾ませて、首にかけたタオルで額の汗をぬぐう。その顔を、せつなは夢から覚めたような顔で見つめると、すぐにまた、穏やかな笑顔になった。



   ☆



「うわぁ、美希たん、カッコイイ!」
「うん。いつもより、なんか大人っぽいかも」
 試着室の前でポーズを決める美希に、ラブと祈里が目をキラキラさせる。そんな二人に小さく微笑んでから、美希はやや緊張気味な視線を、もう一人の親友に向けた。
 人差し指を下唇に当てて、せつなが真剣そのものといった顔つきで、美希の姿を上から下までじっくりと眺めている。その眼差しに、美希が思わずごくりと唾を飲み込んだその時、せつなの表情が、ふっと緩んだ。

「完璧ね。その差し色、やっぱり美希によく似合ってる」
「あら。差し色だなんて、せつな、ファッションに随分詳しくなったんじゃない?」
 濃い砂色のワンピースの襟元に、明るいターコイズブルーのスカーフをあしらった美希が、ニヤリと笑ってから、こっそりとホッとしたような息をつく。

 せつなが帰って来て三日目の今日は、朝から四人揃ってのお出かけだ。昨日はダンスレッスンでみっちりしごかれてヘトヘトになったのだが、四人とも、今日は勿論元気一杯だった。
 祈里の希望で今話題の映画を観て、ラブの希望でハンバーガーを食べてから、四人はこのブティックにやって来ていた。ここへ来たいと言ったのは美希だが、ラブも祈里も、楽しそうに何着も試着を繰り返している。
 私服に着替え、さっさと支払いを済ませた美希は、張り切った様子でせつなの腕を取った。

「じゃあ、次はせつなの番かしら?」
「私? いや、私は別に……」
「なぁに言ってんのよ。ここまで来て遠慮しないの。アタシが完璧に……」
「せつな、ほら! これなんか、せつなにすっごく似合いそうだよ。あと、これとぉ……それから、これも!」
 美希が得意げに言いかけたところへ、ラブが両手いっぱいに洋服を抱えてやって来た。そして鼻歌交じりでせつなを試着室に押し込む。

「ちょっと、ラブ! こんなに沢山、着られないわよ」
「いいじゃんいいじゃん。ちょっと着てみるだけだから。気に入ったのだけ、買えばいいんだからさ。ねっ?」
「だから、私は買うなんて一言も……」
「うふふ。せつなちゃんも、ラブちゃんには敵わないね」
 楽しそうな祈里の言葉に、美希はハァ~っとため息をつくと、さっきのせつなの慌てた顔を思い出して、クスリと笑った。



 結局、それから一時間ほど後にドーナツ・カフェに腰を落ち着けた時には、四人全員がブティックの紙袋を提げていた。
 テーブルの上に置いた紙袋に、嬉しそうにそっと手を触れるせつなに向かって、美希が再びニヤリと笑う。

「何だか嬉しいなぁ。せつながこぉんなにお洒落に興味を持ってくれるなんて」
「そ……それほどでもないわよ」
「そんなこと言って~。一緒に買い物すれば分かるわ。今日はアタシの出る幕なんか無かったじゃない? 自分に似合う服を、完璧に選んでて」
「いや、これはラブが無理矢理……」
「でも、せつなも気に入ったんでしょ?」
 畳みかけるような美希の問いかけに、せつなが赤い顔でこくりと頷く。それを見て、ぱぁっと笑顔になったラブが、さらにテンション高くせつなに詰め寄った。
「そうだよねっ! だってせつな、超可愛かったもん。ねぇ、すっごく気に入った? ねえねえ、せつなってばぁ!」
「……ええ。すっごく、気に入ったわ」

 ますます真っ赤になったせつなの横顔を、優しい眼差しで見つめるラブ。そんな二人を、美希も笑顔で見守る。
 四つ葉町に帰って来ても、どうやらラビリンスのことばかり考えているらしいせつなに、何か素敵な買い物をさせてあげたい――そう思って完璧な計画を立てていたのだが、ラブのせい……いや、ラブのお蔭で、思った以上に上手く行ったようだ。

「さぁて、ドーナツを食べながら、次にどこに行くか決めなきゃねっ!」
「そうだね。じゃあ、まずは注文に行かなくっちゃ」
「カオルちゃーん!」
 ラブと祈里が笑顔で席を立って、ドーナツ・ワゴンに向かう。それを見送ってから、美希はせつなの方に顔を寄せて、囁くように言った。

「せっかくだから、ラビリンスでもお洒落しなさいよ。自分が気に入った服を着る幸せを一番伝えられるのは、せつな自身のファッションだと思うな~」
「え……な、何言ってるのよ! 私は美希と違って、モデルにはなれないわ」
「ノンノン! 雑誌の写真で見るのと、実際にその服を着て、楽しそうに動いている人を見るのと、どっちが素敵に見えると思う? 着ている人が、その服を気に入っているのなら、尚更よ」
 途端にドギマギと目を泳がせるせつなに、美希がパチリと片目をつぶる。
「ラビリンスに幸せを伝えるんでしょう? だったら、せつな自身が幸せな姿を見せなくてどうするの。好きなものは好き、欲しいものは欲しいって、せつなはもっとアピールしていいと思うわよ?」
「別に、私は……」
 せつなが真っ赤な顔で言いかけた時。
「は~い。美希たんはアイスティー、せつなはオレンジジュースだよね~」
「カオルちゃんに、ドーナツおまけしてもらっちゃった。ほら」
 ラブと祈里が、ドーナツが詰まったバスケットと四人分の飲物を持って、笑いさざめきながら戻って来た。

 せつなは、まだ赤い顔で美希を軽く睨んでから、ドーナツをひとつ手に取って、そのハート型にあいた穴を、じっと見つめた。



   ☆



 その夜。せつなは自分の部屋のベッドに横になり、ぼんやりと天井を見つめていた。
 階下からは、ラブとあゆみの話し声が途切れ途切れに聞こえてくる。時折、圭太郎の明るい笑い声がそれに混じる。
 すっかり聞き慣れた――そして今では少し懐かしい、桃園家の団欒の声。その輪の中に混じってみんなの話を聞いている時間は、せつなが何よりも好きな時間だ。
 だが、今日は少し疲れたからと言って、先に部屋に戻ってきてしまった。一人で考えてみたいことが、たくさんあったからだ。

 家族で笑い合って、ご飯を食べて。仲間たちとダンスレッスンをして、みんなで四つ葉町のあちこちにお出かけをして。
 ずっとこの町で過ごしたかった、かけがえのない時間――それなのに、気が付くと、いつもラビリンスのことを考えている自分が居る。この町で幸せな時間を積み重ねるために帰って来たのに、幸せを感じている気持ちのどこかに、常にラビリンスの影がある。
 その癖ラビリンスに居る時は、何度となく四つ葉町の家族や仲間たちの姿を思い描いてしまうというのに。

(私がこの町で幸せな時間を過ごしたいのは、自分の幸せの形を知りたいから。じゃあ、何故それを知りたいのかと言えば、そうすることで、ラビリンスに幸せを伝えたいから。だとすれば……両方が気になってしまうのは、当然なのかもしれない)

 “二兎を追う者、一兎をも得ず”――かつて覚えた、この世界の諺を思い出した。ダンスとプリキュア、両方やろうと明らかに無理をしていたあの頃のラブに、何とかプリキュアを諦めさせようとして言った言葉だ。

(四つ葉町で積み上げる私の幸せと、ラビリンスに届けたいみんなの幸せ――。繋がっていると思っていたのに、ひとつにはなれないのかしら)

 寝返りを打って、今は闇に沈むカーテンに目をやりながら、仲間たちの言葉を思い起こす。

――まずはせつなちゃん自身が心から望むことをして、幸せを感じられることが、一番大切なんじゃないかな。

――好きなものは好き、欲しいものは欲しいって、せつなはもっとアピールしていいと思うわよ?

(幸せは、こんなにも……溢れるほどに貰っているわ。心から望むこと? 私が欲しいものは……)

 そう自分に問いかけた時、ズキリと胸が痛んだ。
 心から望んだことも、欲しいものをアピールしたことも、いくらでもある。そのために、多くの人を傷付けたことも。それでもあの頃、本当に欲しいものは、決して手には入らなかった。
 今、こんなに多くの人たちから幸せを貰っているというのに、何故胸が騒ぐのだろう。
 そう思ってじっと心の奥に目を凝らせば、あの頃の自分が――イースがまだそこに居るような気がする。

(もしかしたら、それが怖くて、私は……)

 せつなは、ひとつ頭を振って気持ちを落ち着けると、もう一度天井の木目を見つめた。

(もう誰も傷付けたくない。誰の笑顔も奪いたくない。だから――私が望むのは、みんなに幸せを伝えること。そのための、私の幸せよ)

 ベッドから起き上がり、机の一番上の引き出しの奥から異空間通信機を取り出す。何だか急に、ラビリンスの次のお料理教室の準備のことが気になったのだ。とは言え異世界に居る自分がわざわざ連絡を取ったりしたら、きっと何事かと思われるだろう。

(この世界の端末と繋げれば、メールくらいなら見られるはず……)

 一瞬、圭太郎の書斎にあるパソコンを借りようかと思ったが、万が一壊してしまったりしたら申し訳ない。かと言ってリンクルンでは、端末としては少々スペックが不足している。
 少し考えてから、以前、タルトがよく遊んでいたゲーム機を使うことにした。タルトは使っていなかったようだが、このゲーム機にはネット環境が備わっているのだ。
 多少試行錯誤はしたものの、三十分ほど経った頃には、せつなはラビリンスで使っている自分のメールアドレスを開くことに成功した。
 小さなゲーム機の画面に並ぶ、未読メールのタイトル。心なしか、いつもより数が多いな、と思いながら、一件一件、中身をチェックする。

(え……何これ。給食センターで、何かあったの?)

 最初は不思議そうだったせつなの表情が、次第に怪訝そうなものになり、ついには険しい表情に変わった。

~終~