幸せは、赤き瞳の中に(第1話:幸福な食卓)




 高速で後ろへと流れる光の回廊が、ふいに途切れる。
 目の前に現れる白いゲート。開いた先には、もう西の空へ傾きかけた太陽と、まだ真昼のような明るさを残した空があった。

「とうちゃ~く!」
 ラブが右手を高々と挙げてそう叫ぶと、ぽん、とクローバーの丘の上へと降り立つ。美希と祈里が、互いに顔を見合わせて小さく微笑み、ラブに続く。それを見届けてから、せつなも笑顔で異空間移動ゲートの外に出た。

 途端に初夏のじっとりとした熱と、むせ返るような草の匂いが体を包む。
 東せつなとしてラビリンスに戻ってから半年と少し。四つ葉町に帰るのは、これが三度目だ。そして毎回、こうやってこの世界の季節に肌で触れると同時に、胸の奥をやんわりとつねられたような、優しい痛みを感じる。
 ほんの数秒、静かに目を閉じてその感触を味わってから、せつなはパッと目を開け、小走りで仲間たちの後を追った。

「いやぁ、楽しかったなぁ、お料理教室!」
「ま、先生があまりにも先生らしくなくて、お料理教室っていう感じじゃなかったけどね~」
 満足そうなラブの後ろから、美希がからかうような口調で声をかける。
「もぉ、美希たんってば。みんなで楽しくお料理して、楽しく食べられたら、それが一番だよぉ」
「うん、そうだね。なんて言うかぁ、凄くラブちゃんらしかったかも」
「うん! って……ブッキー、それってどういう意味?」
 くるりと美希を振り返って口を尖らせたラブが、祈里の笑顔に複雑な表情で首を傾げた。それを見て、せつながたまらず、口に手を当ててクスクスと笑い出す。
「あーっ、せつなまで笑うなんてヒドい!」
「ごめんごめん」

(それにしても……やっぱりみんなは凄いわね)

 せつなは、笑いさざめく仲間たちに笑顔を向けながら、心の中でそっと呟いた。



   幸せは、赤き瞳の中に ( 第1話:幸福な食卓 )



 中学三年生の夏休みを迎えたラブたちは、今日、せつなと一緒にラビリンスに出かけていたのだった。せつなが給食センターの職員たちと一緒に春先から準備して来た、新生・ラビリンスで初めての料理教室の、お手伝いをするためだ。

 調理器具と一緒に用意した真新しい調理台の前に、これまた新品のエプロンを身に着けた、老若男女三十人ほどの生徒が並ぶ。一番後ろの調理台には、今日の手伝い要員として、既に料理の手順を覚え、せつなと一緒に予行演習も済ませた給食センターの職員たちが、ずらりとスタンバイしている。
 期待と緊張が入り混じった彼らの視線の先には、この日のために祈里が作った、赤、ピンク、水色、黄色のエプロンを着けた四人の少女たち。その中の一人――赤いエプロンを着けたせつなが、口火を切った。

「皆さん、準備はいいですね? ……じゃあラブ、お願い」
「は、はい!」
 ラブがゴクリと唾を飲み込んでから、調理台の上のタマネギを手に取る。それを合図に、美希と祈里は調理台を離れ、生徒たちの横手に回った。

 今日のメニューは、ラブが得意なハンバーグと、サラダと野菜スープだ。
 包丁さばきは実に鮮やかなのに、説明は何だかしどろもどろのラブに代わって、せつなが分かりやすく料理の手順を解説していく。

 せつなの言葉に耳を傾け、ラブの手元を一心に見つめてから、生徒たちがぎこちない手つきでタマネギの皮をむく。そして、包丁の持ち方を何度も確認しながら、真剣な面持ちで微塵切りを始めた。

 辺りはしんと静まり返って、聞こえるのは説明役のせつなの声だけ――そんな状況が数分続いたのだが、生徒たちの間から、小さく「痛っ!」という声が聞こえた途端、その場の空気はガラリと変わった。

「あ! 指切った? 大丈夫? う、うわぁっ!」
 ラブが慌てて声のした方へと向かおうとして、勢い余って床につんのめりそうになる。
「ラブ! だいじょぶ?」
「もうっ、何やってんのよ」
 せつなと美希が素早く駆け付けて、両脇からラブを支えた。

「怪我は、大したことないみたい。痛みますか?」
「いいえ、もう大丈夫です。ありがとう」
 その頃には、怪我をした女性の元には祈里が駆け付けていて、慣れた手つきで手当てをしていた。

「ナハハ~、失敗失敗。えーっと、台所にはいろんなものが置いてあるし、火を使う場所だから、何があっても落ち着いて……」
「それ、お母さんがよくラブに言ってることよね」
「うっ……ごめんなさい」
 照れ笑いのラブに、極めて真面目にツッコむせつな。二人のやり取りを隣で見ていた美希が、アハハ……と明るく笑った。それにつられるように、あちらこちらから小さな笑い声が漏れ始める。
 それはだんだんと大きくなって、ついには調理場全体が明るい笑いに包まれた。

 ラブが再び照れ笑いをしながら、気を取り直して調理台に立つ。
「怪我が大したことなくて良かった……。包丁はね、慌てないでちゃんと使い方を守れば、恐くないんです。ほら、こうやって。ね? あ、見えにくい人は、遠慮しないでこっちに見に来ちゃって!」
 あの小さな失敗が功を奏したのか、ラブの口調がさっきよりずいぶん滑らかになっている。生徒たちの方も、周りを見回しながら恐る恐るラブの周りを取り囲んだ。

 美希がその様子を見て小さく微笑むと、近くでタマネギと格闘している男の子の元へと向かう。
 救急箱を片付けて戻って来た祈里の方は、照れ臭そうな笑顔で、せつなに小さく手招きした。
「せつなちゃん。あっちの人、切り方ちょっと間違えてるみたい。わたしはお料理あんまり得意じゃないから、せつなちゃんが見てあげてくれる? お願い」
 せつなが一瞬ポカンとしてから、その言葉にフッと頬を緩め、祈里に教えられた生徒に歩み寄った。祈里はそれを見届けてから、今度は後ろで成り行きを見守っている給食センターの職員たちに、にっこりと笑いかける。

「よぉし、じゃあ切ったタマネギをボウルに入れて、挽肉と混ぜて行くよ~」
 よく通るラブの声に、調理台のあちこちから、はーい、という声が上がる。
 その頃には、手伝い要員も含めた全員が調理台に立って、小声ながら談笑しつつ、楽しげに料理を始めていた。

 さらに一分の後。
「いいこと思いついたっ!」
 ハンバーグのタネを完成させ、それを丸める段階に移ろうとしたラブが、再び明るい大声を上げた。全員が手を止めて、最初の時と比べて格段にキラキラした目でラブに注目する。

「ねぇ、みんな。少し小さくなっちゃうけど、このボウルの中身を二つに分けて、一人二個ずつハンバーグ作ろうよ!」
「でも、これはハンバーグ一個分の材料なんですよね?」
 生徒の一人が不思議そうに問いかける。
「うん。でも大丈夫だよ! 一個は自分で食べるけど、もう一個は誰かに食べてもらうの。そしてその分、誰かのを貰って食べ比べてみるの。
みんな、自分が作ったハンバーグだけじゃなくて、隣の人が作ったのも食べてみたいでしょ? それに、自分が作ったハンバーグも、誰かに食べてもらいたいって思わない?」

 全員が一瞬しんとしてから、隣同士、そっと目と目を見合わせた。そして少しくすぐったそうに、小さく笑い合う。その時、手伝い要員として参加していた若い女性が、あ、と明るい声を上げた。
「それって……誰かと“半分こ”ってことですね?」
「その通り!」

 ラブが満面の笑顔で頷いてから、近くの調理台を手伝っているせつなの方に目をやった。照れ臭そうな、少し得意そうな、そしてとても嬉しそうな、何とも複雑な表情。それを上目づかいに一瞬だけ睨んでから、せつなが赤くなった頬を隠すように、さりげなく顔をそむける。

「じゃあ、予備の材料も持って来て、もっとたくさん作りましょうか。僕、材料を取りに行ってきます」
「いいね! せっかくだから、たくさん作った方が楽しいよね!」
 今度は若い男性の手伝い要員の弾んだ声に、ラブは緩みかけた顔を慌てて引き締めると、一緒に張り切って冷蔵庫に向かおうとする。だが。
「ちょっと、ラブ! 半分を交換するだけなら、たくさん作る必要はないでしょ?」
 せつなの生真面目な声が追いかけて来て、ラブと若者は、あ……と顔を見合わせた。
 どちらからともなく、エヘヘ……と力のない笑い声を上げて頭を掻く。その情けなさそうな顔に、調理場は再び穏やかな笑いに包まれた。

 こんなちょっとした暴走はあったものの、ラブの提案のお蔭で、調理の後の試食タイムはさらに賑やかで楽し気なものになった。
 自分が作った料理を食べる仲間の顔を、心配そうに固唾を飲んで見つめる者。
 同じ材料を使って同じ手順で作っているのに、こんなに味が違うなんて……と驚く者。
 美味しい、という仲間の声を聞いて、嬉しさと照れ臭さでひたすら目を泳がせる者。
 中には“半分こ”だけでは飽き足らず、別のテーブルにまで出かけて行って、ひと口ずつ食べ比べを始める者も出始めた。

「は~い、ハーブティーが入ったわよ~。肉料理に合うように、さっぱりしたブレンドにしてみたの。良かったらどうぞ」
 美希が、祈里に手伝ってもらって、ポットとカップを載せたお盆を持ってテーブルを回る。今日のメニューに合わせて自分で選んだ茶葉を、四つ葉町から持って来たのだ。

 そもそも“お茶を飲む”という習慣が、ラビリンスには無い。
 誰もが恐る恐るカップに口をつけ、美味しい、と呟いたり、何だか不思議そうな顔をしたり、くんくんと匂いを嗅いだり。
 そのうち何人かが美希の周りに集まってきて、熱心に質問し始めた。美希も柔らかな口調で、丁寧に質問に答えている。

 せつなは、ラブと並んでテーブルに座り、全員の様子を端から端までじっくりと眺めていた。
 その顔には穏やかな笑みが浮かんでいるが、よく見るとその赤茶色の瞳が、小刻みに揺れている。彼女が内心ひどく驚き、激しく心動かされている証拠だった。

 四つ葉中学校の昼休みよりは静かだけれど、わいわいガヤガヤと絶え間なく聞こえてくる無秩序な声。
 時に楽しげに、時に心配そうに、相手の反応に一喜一憂して、くるくると変わる人々の表情。
 テーブルのあちこちから、これまた絶え間なく響いて来る、楽しそうな笑い声。

 ほんの数か月前、給食センターで自分一人が先生になって開いた、今日のための予行演習の様子を思い出す。
 あの時も、人々は今日のようにとても熱心で協力的だったけれど、今日とは雰囲気が天と地ほどに違った。初めて経験する料理というものに、目を輝かせて興味津々ではあったけれど、こんなに楽しそうな空気は感じられなかった。

(本当に、ここはラビリンスなのかしら……)

 どうやったらみんなでご飯を作って食事をする幸せを伝えられるのか、あの時は一人、人知れず悩んでいたというのに……。

 ラブがそんなせつなの様子を、実に嬉しそうな眼差しで、隣からそっと見つめる。そして、ハンバーグのカケラをわざとらしく、ごっくん、と飲み込んでから、おもむろにせつなの肩をつついた。

「ほら見て、せつな。あの子たち、何だかあたしたちみたいじゃない?」
 そこには、ちょうど中学に上がるかどうかというくらいの年頃の女の子が二人、頬と頬とをくっつけるようにして、小さな一つのハンバーグを仲良く一緒に食べている姿があった。
 ねっ? と少し上気した笑顔を向けてくるラブに、赤い顔でコクリと小さく頷きながら、せつなは何だか夢でも見ているような気持で、この明るく幸せに満ちた食卓の光景を眺めていた――。


   ☆


「せつな~、どうしたのぉ?」
 不意にラブの声が聞こえて来て、せつなは追憶から覚めた。いつの間にか、仲間たちからずいぶん遅れてしまっている。ラブ、美希、祈里の三人は、いつになく歩みの遅いせつなを心配するように、こちらに顔を向けて立ち止まっていた。
 四人はクローバーの丘を抜けて、クローバータウン・ストリートの近くまでやって来ていた。前方から聞こえて来るのは、きっとすぐ先の四つ葉町公園で鳴いている、蝉たちの声だろう。
「何でもないわ」
 せつなは笑顔で駆け出すと、仲間たちと並んで歩きながら、彼女たちの顔を見回した。

「みんな、今日はどうもありがとう」
「どういたしまして! あたしもすっごく楽しかったよぉ」
「何よ、改まって。まぁ、アタシのハーブティーも好評だったし」
「わたしはあんまり役に立てなかったけど、みんなで作ったハンバーグ、美味しかったよね」

 いつもと変わらない三人の笑顔に、せつなの笑みも大きくなる。だが。
「さぁて、明日から何しよっか。まずはダンスレッスンでしょう? それから、四人でどっかに遊びに行ってぇ……あ、週末になったら、家族でドライブに行くのもいいかも!
ねぇ、せつな。それまでこっちに居られるでしょう?」
 ラブの弾んだ声に、せつなの顔が少しだけ曇った。

「……せつな?」
「あ……うん。それくらいは居られるといいんだけど……」
「ラビリンスで、急ぎの用事があるの?」
 ラブと美希に心配そうな顔を向けられて、せつなが慌てて笑顔を作る。

「ごめんなさい。まだ予定が立っていないけど、次のお料理教室の準備を、いつから始めなきゃいけないかなって……。まだまだ、希望者がたくさんいるし」
「でも、給食センターの人たちは普段の仕事もあるから、そう頻繁には開催出来ないんでしょう? その、毎週、とかは」
 祈里の言葉に、そうね、とせつなが頷くと、ラブが勢い込んでその手を取った。
「だったら、せつなはもう少しこっちに居なよ! あたしたちも夏休みだし、お父さんとお母さんも、せつなと一緒に居たくてうずうずしてるんだからぁ!」

 ねっ? と笑顔でこちらを覗き込んでくるラブの瞳に、自分の顔が映っている。
 少し困ったような、それでいてとても嬉しそうな……。その顔は驚くほど間が抜けた、無防備な顔に見えた。
 何だか少し可笑しくなって、せつなはフッと小さく笑う。

(これが私の、幸せな顔なのかしら)

 幸せな時間を積み上げることで、自分の幸せの形を知っていきたい。そうすることで、ラビリンスの人たちに幸せを伝えることも、きっと出来るはず――。
 それは今年の春、ある事件をきっかけに再び四つ葉町に帰って来たせつなが、そのときの経験を通して学んだことだった。
 今、この幸せの町で、家族や親友たちと過ごす時間を持てたことも、きっと幸せの形を知る一歩なのだろう。
 ラブや美希や祈里、あゆみや圭太郎にとっての、特別な日々を送るわけではない。求めているのはささやかだけどあたたかい、ごくありふれた日常。でも、せつなにとってそれは特別の、かけがえのない一歩だ。
 その一歩を積み上げて行けば……。

(私もいつか、みんなのように幸せを広げていけるかしら)

「わかったわ。じゃあ週末まで精一杯、みんなと楽しく過ごさせてもらうわ」
「やったぁ!」
 ラブが両手を天に高々と突き上げて叫んだ、そのとき。

「よぉ。お前たち、今帰りか」
 聞き慣れた声と共に、公園の入り口から、一人の男が姿を現した。
 オレンジ色の半袖シャツに、グレーのハーフパンツ。すっかり夏の装いとなった、西隼人――元・ラビリンス幹部ウエスターの、この世界での姿だ。

「隼人さん!」
 ラブが嬉しそうな声を上げて、男の方へと駆け寄る。三人もそれに続いたが、隼人の顔を見た瞬間、せつなは僅かに顔をしかめた。
 隼人の方はそんなことを知ってか知らずか、いつもの能天気な笑顔で四人を迎える。

「もう来てるなんて早いね。カオルちゃんに、今日の報告?」
「おう。今日は押しかけて悪かったな。おまけにご馳走にまでなっちまって」
「ううん。たっくさん作ったから、みんなに食べてもらえて良かったよ」
 嬉しそうにかぶりを振るラブに、隼人も穏やかな笑みを返す。

 ウエスターが、今所属している警察組織の部下らしい若者を何人も連れて、料理教室の会場にふらりと現れたのは、試食タイムの最中だった。それも、ウエスターお手製のドーナツが入った紙袋を、彼自身も部下たちも皆、両手いっぱいに抱えて。
 元々ドーナツに目が無かったウエスターは、ひょんなことからカオルちゃんに弟子入りして、熱心にドーナツの作り方を習っている。今日はその成果である手作りドーナツを、大量に持って来てくれたのだ。
 思いがけないデザートの差し入れに、会場は更に湧き立った。そして、急遽彼らの席が設けられ、みんなで作った料理を分け合って、一緒に食べることになったのだった。

「隼人さん、腕を上げたよね~。今日のドーナツ、超美味しかったよぉ」
「そうか!?」
 ラブの言葉に、隼人が心底嬉しそうな顔をする。
「うん! みんなもすっごく喜んでたよ。じゃ、あたしたちからもカオルちゃんに、ちゃんと感想を報告しなきゃね。行くよっ、せつな、美希たん、ブッキー!」
「オーケー!」
「うん!」
 ラブが、あの頃と同じように仲間たちに号令をかけて、ドーナツカフェへ向かって走り出す。美希と祈里はすぐに後に続いたが、せつなは隼人の隣に立って、大男の顔を見上げた。

「ねえ、隼人」
「なんだ?」
「今日、あなたが連れて来た人たちの中に、女の子が居たでしょう? あの子もあなたの部下なの?」
「いや、あいつはまだ、単なる知り合いと言ったところだ」
 事もなげにそう答えた隼人だったが、せつなの次の質問――正確には確認の言葉を聞いて、その表情が微妙に変わった。

「あの子……施設育ちよね?」
「やっぱり分かるか。まぁ、俺が連れているヤツらで、そうじゃないってヤツは一人も居ないがな」
 少し低くなった隼人の声を聞いて、せつなが、やっぱり……と小さく呟く。
「どこの棟?」
「E棟だ。見覚えがあったか?」
「いいえ。あの頃は、戦闘訓練で当たらない年下の人間になんて、興味なかったもの」
 苦いものを含んだせつなの言葉に、今度は隼人が小声で、そうだな、とぼそりと言った。

 “施設”――それは、かつてラビリンスに三か所存在していた、軍事養成施設のこと。ノーザを除く三人の幹部と、それに続く武人を育成していた施設だ。
 歴代のイース、ウエスター、サウラーは皆、それぞれの施設――E棟、W棟、S棟から一人ずつ選ばれるのが決まりだった。勿論、せつなも隼人も、例外ではない。

 メビウスによる管理体制が崩壊した後、これらの施設は解体され、そこに属していた子供たちは、一般の子供たちと同じ居住区に移った。だが、物心つく前の幼い子供はともかく、長い年月を施設で過ごしてきた子供たちにとって、変わりつつあるラビリンスは、そう簡単になじめる世界では無かった。
 ウエスターは、そんな子供たちをとりわけ気にかけていて、居住区に顔を出してドーナツを振る舞ったり、中でも年長の何人かを警察組織に誘ったりしていた。

 そして、今日料理教室にやって来た若者たちの中に紅一点の、せつなより少し幼く見える少女が居た。
 肩の少し上くらいで切り揃えた、少しくすんだライトブラウンの髪と、色素の薄いラビリンス人には珍しい、オレンジがかった鮮やかな紅い瞳を持つ少女。
 揃って体格のいい男たちに混じって皆の前に現れた少女は、その一人だけ華奢で可憐な容姿よりも、目の覚めるような鮮やかな身のこなしと、人一倍ふてぶてしい態度で皆の目を引いた。

 抱えて来たドーナツの袋を、放り投げるような乱暴な手つきでテーブルの上に置き、そこに集まっている人間たちを、鋭い目つきでじろりとねめつける。
 一緒に食事をしようと勧めた給食センターの職員は、至近距離に居たにも関わらず、まばたきひとつの間に彼女を見失った。
 部屋から飛び出したところをウエスターに連れ戻された彼女は、椅子に座ろうともせずに腕組みをしたまま料理を一瞥して、ふん、と鼻を鳴らした。が、半ば強要されてしぶしぶハンバーグをひと口頬張ると、一瞬目を丸くしてから、がつがつと皿の上の料理を平らげた――。

(ひょっとしてあの子は今も、施設に居た時と同じように、たった一人で戦っているんじゃないかしら……)

 心の中でそう呟きながら、燃えるような赤い眼差しを思い出す。途端に胸の中が炎で焦がされたようにチリチリと痛んだ気がして、せつなは隼人に気付かれないように、静かに息を吐き出した。

「まあ、あいつのことは心配するな。今のところ居住区で問題は起こしていないし、俺も気を付けて見ている」
 いつもの明るい声に戻ってそう言ってから、隼人がそんなせつなに向かって、パチリと片目をつぶって見せる。
「それに、前に師匠が言ってたぞ? 食べ物を旨そうに食べるヤツは、それだけで幸せをひとつ手に入れられる、ってな」
「それが本当だとすると、あなたとラブは、いつも真っ先に幸せをゲットしてるってことになるわ」
「おお! やっぱりそうか?」
 半ば本気で喜んでいるような隼人の様子に、せつながようやく、クスリと笑った。

 二人はそれきり黙ったまま、ドーナツカフェの方へと足を向ける。
 四つ葉町公園の木々は、少しオレンジ色に染まった光をちらちらと反射して、夏の一日の終わりを、美しく彩っていた。


~終~



最終更新:2016年02月21日 22:46