【登場キャラ(敬称略)】
奥田十穏ネデニュイサーベラス真島 正路フェネキッス






 奥田十穏は猛省していた。
 そんなに気に止む事ではないにしろ、自分の迂闊さに対して後悔の念があった。悪魔マンションの家主である真島正路からの頼みを受けて、5000円のバイト賃のかわりにその肉体を悪魔サーベラスの支配下に捧げるという契約を引き受けてしまったのが、そもそもの失策だった。それだけならまだしも、せめて意識を受け渡してしまう前に、ネデやニュイが戻ってきたら肉体を返却し、支配を中断して欲しいと述べておくべきだったのだ。ぺらぺらとうすっぺらい五千円札を目の前でちらつかせながら、自宅のベランダで頬杖をつきながら十穏は物憂げに溜息をついた。
 どんな小さなものであれども、さまざまな音を拾う十穏にとって夜更けの静まり返った住宅街でさえも、歓声な街中のように聞こえた。ニコニコ動画の時報が、午前0時くらいを知らせる。それぞれのPCのタイムラグですさまじい輪唱並みの時報があっちこっちから聞こえてきて、それはそれでうるさいもののちょっと間抜けっぽくて面白かった。誰かの泣き声やヒステリックな罵倒、喧嘩といったマイナスの喧噪よりは、こんな馬鹿みたいな雑音の方がずっとましだ。普段ならば思わず笑ってしまう所だったが、今日の十穏の口元から零れるのは、噛み殺すような笑いではなく物憂げなため息が、ひとつ。

 悪魔達の暮らすマンションで、十穏が気が付いた時には、あたりはどっぷりと夜に深けており、慌てて時計を見れば帰路につくはずだった六時を大きく過ぎて、何時もならばあちこちから様々なドラマの台詞や音楽が聞こえてくる九時、十時のゴールデンタイムも終えて、もう小一時間で日付変更線をまたぐ所まで来ていた。
 慌ててやりかけの宿題を見てみれば、当然のようにノートは白紙だったし、何より恐ろしいのは自分が自分でない間に、一体何をしでかしていたのかわからないといった所だった。
 正路の監視下におかれているにしても、サーベラスという男は一応悪魔のはしくれだ。もしかしたら、自分の空白の数時間を使って、人の身体である事をいい事に、ひどい悪行に手を染めたりなどしていたかもしれない。衣服に汚れは見当たらず、流血沙汰になってはいないらしい事には安堵したが、十穏は思わず自分が強盗をしたり、脅迫をしたりといった光景を想像して、さあっと血の気が引いた。
 だが、幸いにも十穏がサーベラスに支配されていた際に、此処へ訪れたネデやニュイ達に話を聞く事が出来た。
「確かになんだか様子がおかしいなー、とは思ったけど、そっかあ。あれ十穏君じゃなかったんだね」
「妙に口数が多くて、興奮した様子であっちこっちで人に話しかけまくってた」
 両社から聞いた限りの証言によると、サーベラスが不穏な行動をとっていたような気配は感じられなかった。それどころか、ものすごい饒舌さで意気揚々としながらそこらじゅうの人々と会話をしまくっていたらしい、といった内容から、十穏は自分が見知らぬ人々にハイテンションで声を投げ掛けまくる光景を想像して、それはそれで何だか奇妙に恥じ入るものがあった。
 解りやすく後ろめたい行いをしてはいないらしい事に対しては盛大に安堵こそしたものの、微笑ましいというより、それはいっそ変人じみている。サーベラスが口にした内容によっては、それこそ完全に変人か不審者だ。
 また、盛大に奪われた時間と中途半端なまま途切れた宿題に、ネデとニュイと話す機会があったにも関わらずそれを逃してしまった事に対して、十穏はやはり後悔していた。最も、正路が提示した5000円という報酬からしてみれば、これくらいが十分に見合った内容なのかもしれないが……。それにしたって、腑に落ちない。釈然としない気持ちをかかえながら、渋々と自宅へ戻った。時間が時間だけあって、マンションに暮らす悪魔達がこぞって見送りを提案してきたが、悪魔の差し出す提案を安請け合いするほど馬鹿じゃない。見返りを求めてこない保障は無いし、それに、危険が迫ってきたとしても、それこそ不服だがこの異常なくらいの聴覚が危機回避に役立つだろう。丁重にお断りして結局一人で帰路についた。
 その背中を、分厚いサングラスをかけた巨体の男が、じっと見つめていた。目元が隠されているせいもあり、無表情さが際立って、何を考えてるのかさっぱりわからない、サーベラスの姿がそこにはあった。十穏の後姿に恭しく頭を下げる。一体どういう心算何だか。
 …それにしても、あいつ、俺の身体で本当何言ったんだろう。

「あー……勉強……どうしよっかなー」
 今日はもう、夜も遅い。単純計算にして、一日の四分の一を悪魔に奪われていたわけだが、その間でも意識こそなけれどこの身体は活動を続けていた。その分の疲労はきっちりと残されており、ぼんやりとした眠気のようなものも感じられる。勉強まあ…、そんな急ぎでもないし。続きはまた明日でもいいだろう。
 納得のいかなかった曲の取り直しも考えていたが、こんな時間にそれはいくらなんでも非常識だろう。常に騒音に悩まされている十穏であるからこそ、心地のいい静寂がどれだけかけがえのないものであるのかは、身に染み入るほど知っている。それこそが、十穏が欲しくて欲しくて仕方のないものなのだから。
 あれこれ思案を巡らせて、結局今日はもう寝よう。そう考えて、手にしたままだった5000円札を、ふと思いだす。自分の時間と意識のレンタル代。それは、正当な報酬であり、けして後ろ暗く思う事はない筈なのだが、何故だかそのまま財布に忍ばせるのは憚れた。悩んだ挙句、へそくり感覚で適当に引き出しの中へといれておく事にした。忘れたころにぽっと出で見つけて、その頃には今日あった出来事も記憶の彼方で、気に病むことなくそのお金をありがたく使える事だろう、そんな期待と一緒に。
 風呂に入るのも億劫だったので、洋服だけ着替えて、あとは電気を消して布団をかぶって、もうさっさと眠ってしまおう。

 そんな事を考えていた十穏の耳に、ふとききなれた声がした。
 「おい」とたった一言、不愛想に吐き捨てられる声音から得られる情報は僅かだったが、それでも十穏はその声の主を違えたりはしない。ましてや、つい先程耳にしたばかりの声であれば尚更だ。十穏には確信をもって判断する事が出来る、それは正路のものだった。
 ついには彼のアパートから聞こえる微かな音でさえ、聞こえるようになってしまったのかとぞっとしない想像に駆られたが、どうやらそうではないらしい。それはわりと近くからの音だった。こまごまとした物音が入り混じったなかから、はっきりと声が聞こえてきた方向を定めるというのは中々難しいものだった。きょろきょろと周囲を見回しながら、声がする方角を定めようとする十穏を導くかのように「こっちだ」と正路の声がした。しかし何故、彼がこんな場所にまでやってくるのか、最初は心労からくる幻聴かとも思ったが、もはや聞き間違えでは済まされない。声ははっきりと、十穏の部屋に面接した道路から聞こえていた。
 一度は後にしたベランダへと再び十穏は舞い戻り、柵から身を乗り出すと街灯に照らされて、確かにそこには真島正路、その人の姿があった。
 正路は黒いジャケットを羽織り、肩には蛸のような姿をした悪魔フェネキッスがはりついている。身を隠しているつもりなのだろうか、ジャケットの裏地にぺったりとこびりつき、丁度服と上着の隙間から顔をちょこんとのぞかせていた。
 十穏は正路の姿を目にするやいなや、露骨に嫌そうな顔をして、いっそ気付かなかった事にしてしまおうかとも思った。
 しかし、どうにも様子がおかしい。そもそも、正路がわざわざ十穏の家の近くまで自ら赴くという行為からして異常なのだ。何かあったら、強引に悪魔でも何でもこきおろして呼びつけて、寧ろこっちが正路の元へと赴くように仕向ける筈だ。あいつはそういう男だという事を、十穏はいやという程に知っていた。
 そんな十穏の心情を知ってか知らずか、正路は恭しく頭を下げる。やばい、明日世界が崩壊する、と一瞬十穏は突拍子もない事を想像したが、いやまて。すぐに冷静さを取り戻した頭で、考え直す。目上の者に対する態度を、丁寧に躾られたかのような、例えば執事やSPなどを想像させるその仕草は、身に覚えがあった。自宅への帰路につく十穏の背中を見送った、サングラスをかけた巨体の悪魔。今の正路の動作は、その人物の振る舞いととてもよく似ていた。また、サーベラスという悪魔が、人の肉体を支配し、自在に動かす事が出来る事についても、十穏は身を以て知っていた。以上の内容から、憶測が結論となるにはそう時間はかからなかった。

「………サーベラス、か?」
 十穏は、ベランダから道路に佇む正路の姿を見下ろしながら声をかけた。推論でしかないそれがもし違えていたらと思うと、つい萎縮してしまい、声は自然と小さくなる。こんな声ではたして相手は気づくのかと思ったが、正路はぱっと十穏のいるベランダのほうへ向き、にっと口角を釣り上げた。眼鏡を一枚隔てた向こう側にある、常に人を睨み付けるかのような双眸と視線がばちりとはちあって、自然と十穏の身体は強張った。何見てんだとイチャモンをつけられるかもしれないとも思ったが、正路は再び軽く頭を下げ、会釈をすると言った。
「御名答であらせられます」それは確かに正路の声質だったが、明らかに彼ではないと解る、慎ましやかな語調だった。
「……何で正路の身体を……しかもこんな夜更けに」
「正路様の肉体を使わなくてはならない理由は貴方様もご存じであらせられるはずだ。私は貴方方と意思疎通をかわす為の言葉を持たない」
「……そう、だったな」だからこそ、正路はサーベラスとの通訳に、十穏の肉体を媒介とする事を考えたのだから。当事者である十穏が、知らない訳がなかった。先程まで、そのことに対して強く後悔していた十穏からしてみれば、いっそ忘れ去ってしまいたい事だったが。「…えっと…それじゃあさ」と、話題を逸らす様に、十穏は正路に…正確には、彼を支配しているサーベラスにだが…尋ねる。「何か、用?」
「貴方に、謝罪をしようと」
「謝罪……って」思い当たる節はすぐさま湧いて出た。謝罪というのは、サーベラスが十穏の肉体を拝借した事に対する詫びだろうと思われるが、それはつまり、謝る必要性があるような事を自分の身体を使ってしでかしたという事だろうか。懸命に拭った最悪の光景が再び脳裏を占領していき、思わず眩暈がした。やばい。考えすぎであって欲しい。震える声で、十穏は尋ねる。「な、…何を」言ってから、やっぱ聞かなきゃよかったかもしんない。知らぬが仏という事も、世の中にはある。そんな気もしたが、後の祭りだ。十穏が後悔の念に苛まれているその間にも、サーベラスは、正路の声を使って、ゆっくりと語り出した。「私は、声を持たない。人々との意思疎通が出来ないというのは存外、苦痛であるものだ」
 やっぱたんまと言った所で、間に合わない。だがそれ以上に、正路の言葉を使っているとは思えない程の誠実な喋り口調に、十穏は黙ってサーベラスの言葉に耳を傾けた。
「伝えたいものが彎曲する事無く、余計な齟齬を招く事も無く、相手に伝わる。それは私にとって、ひどく幸福なひと時だった。普段伝えられない事、胸中に抱え込むしか出来ないこと、全てを吐き出す事が出来る。素晴らしいと、思わず年甲斐もなく興奮してしまい、少し余計に喋りすぎた。…これは私の身体ではないという事さえ忘れて」
 サーベラスの言葉は、淡々としたようでいて、しかしやはり何処か昂揚しているかのように捲し立てる面々が時折見られた。それは、彼の中にある『口を利ける』という至上の悦びが、思わず言葉の端々から溢れ出てしまったものなのだろう、と十穏は思った。
(こんなに嬉しそうに喋る奴は、なかなかいない)
 もういっそ、何も聞こえなくなってしまいたい。そこまで精神を切迫させる悲痛な叫びや、人の口から零れ落ちているとは思えないような単語を、いつもいくつも耳にしてきた十穏が、そう感じる程に、正路の身体を借りたサーベラスの声は歓喜に満ち溢れていた。
 こんな奴に、自分は声を貸してやったのか。そう思うと、5000円は高すぎる報酬のような気がした。この悪魔らしからぬ男の、抑えきれない喜びだけで、十分のような気がした。そして、彼はきっとその声を使って、謝罪が必要となるようなものをけして吐き出す事はないだろう、そう確信染みた感覚を覚えた。だから十穏は言った。
「いいよ、気にしないでさ。そんなに喜んでもらえたならさ。それに、アンタに乗っ取られてる時は凄い静かで、俺としても助かったし…っていうか」
 そこで、はたり、と思いだしたかのように十穏は正路を解して、サーベラスに尋ねる。
「俺の身体使って、うるさくなかった?」
「私は悪魔ですが、その本質は狼や犬に近い。彼等の種族の中で最も優れているのは嗅覚だが、その次に優れているものは聴覚だ。彼等は実に人間の14倍もの聴覚を持つ、最も貴方のそれには遥か及びませんが。それでも、有り触れた人間よりは雑音には慣れている」
「そっか、…なら、よかった」
「お気遣い、痛み入ります」そう言って、またもや恭しく頭を下げるサーベラスに、十穏は手をはたぱたと振りながら言った。
「いーっていーって。そんな畏まらなくてもさ」

 5000円は、やっぱり高い。十穏は心の底からそう思った。


+++

 ………十穏の家から帰路につく正路。その肩に乗ったフェネキッスが「もう出てきても良いのではないかと私めは思うような思わないようなそんな気が致します」と、電信柱の影に向かって告げる。すると、そこからするっと大型犬ほどのシルエットが現れた。暗闇と同化するかのような、真黒い体毛に耳先だけが真紅に染まっている。たれ耳には環状のピアスが並んでおり、その姿は一見するとドーベルマンやジャーマンシェパードといった、訓練の行き届いた警察犬を思わせる、すらっとした体型をしている。しかしその額からはイカズチマークのように弯曲した二本の角と、こめかみからは山羊のようにカーブした太い角が生えており、四肢は犬のそれではなく、鱗に包まれた鳥類のようなそれだ。
 そのシルエットは、頸をこくんと下げて頷くような仕草をした。金色と銀色のオッドアイに横たわる草食動物のような瞳孔を、きゅっと瞑ると、一瞬直立していた正路の身体がびくりと触れた。そして、暫し呆然としていた彼だったが、すぐさま現状を把握したのか、僅かにずれた眼鏡を中指でくいと直し「済んだか」と一言、犬のような姿をした悪魔…サーベラスに向けて告げた。サーベラスは再び、こくんと頷く動作をする。正路は「そうか」とそっけない返事を返すと、あとはもう興味がないようだった。
 ただ一言、強い命令するかのような語調で「事前に述べたとおり、俺の身体を貸す代価は高いからな」と告げる。
 サーベラスは姿勢よく犬でいう『おすわり』の状態で、項垂れるようにしてぺこりと頭をさげた。それが『代価はきちんと我が身を持ってお返しする事を盟約します』といった忠誠の意味合いであるのか『貴方に代価を果たすと偽り、忠義を果たす事を誓わないこの身をお許しください』といった贖罪の意味合いであるのか。
 それは、声を持たない彼には、伝える術もない事だった。