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【登場キャラ(敬称略)】 [[奥田十穏]]、[[ギフト]]、[[メネ]]、[[トリル]]、[[ユミル]]、[[フェネキッス]]、[[ルシェ]]、[[真島 正路]]、[[サーベラス]] ---- 奥田十穏は黙々と宿題に取り掛かっていた。 こたつテーブルに広げた教科書の英文を和訳してゆく。英和辞書を参照しつつ、時にはインスピレーションに任せつつ。耳栓代わりのヘッドホンからはお気に入りの曲が大音量で流れている。 このマンションは学校より静かで集中しやすい。 その気になればマンション全室の音を拾い集めてしまう、過敏なまでの聴覚を持つ十穏だが、好きな曲はその厄介さを少しの間忘れさせてくれた。彼が音楽を愛する理由の一つだ。 悪魔のギフトとメネは同室の少し離れた場所にて再放送のドラマを鑑賞している。「陳腐ながらそつのないシナリオで」「どっちの方が可愛いですかぁ」等の会話を聞いていると、悪魔は宿題なんかなくていいよなあと釣られて茶々を入れたくなる。 テレビ近くのソファにはトリル、そしてユミルも座っていた。いやに静かで寝息も聞こえる。トリルは眠っているのだろう。 あとは洗濯物を畳むタコもといフェネキッス。そして何やらその背後ににじり寄るルシェくらいか。 このマンションの一室にはどういう訳か悪魔や悪魔に関わる人間がよく集まる。 十穏も本来は異界の友人であるネデやニュイに会うため訪れていた。しかし生憎今日は不在だ。彼らに会いに行けないこともないのだが、ネデがニュイと一緒なら、と考え宿題を片付けながら待つことにしていた。十穏なりに気遣ったつもりである。ネデとニュイの仲にそういう気遣いが必要かは、けっこう微妙な所ではあるが。 シャーペンを動かす手を止め伸びをする。 よし、6時まで宿題をして自宅に帰ろう。そして昨日納得いかなかった曲の録り直しを… 背後でドアの開く音がした。忌々しい聴覚が、ヘッドホン越しに誰かの近づく足音を拾う。静かな足音は十穏でなければ気づかなかっただろう。振り向いた先にはこの悪魔マンションの家主、正路が立っていた。 音を殺し、周りの悪魔たちに勘づかれないよう気を配りながら十穏に手招きをしている。人差し指を唇に当てるジェスチャー付きだ。『静かに。こっちに来い』という事らしい。 正路が人なり悪魔なりを呼びつけるのは大抵雑用を押し付けるためだ。思わずげんなりしてしまう。俺今宿題してんですけど。 十穏が面倒だから無視してしまおうかと逡巡していると、正路の視線が『こっちに来い』から『いいからさっさと来いコラ』に悪化してきた。舌打ちして蹴りでも入れんばかりの剣呑なプレッシャーに根負けし、十穏は渋々ミュージックプレイヤーの停止ボタンを押した。 正直なところ、十穏が抱く正路への心象はあまり良いものではない。 人や悪魔を平気で騙しこき使う男だ。訪れる悪魔や人間に料理を振舞うような気前の良い面も持っていたが、恐らくそれは布石に過ぎない。「タダ飯食わせてやってんだから当然だろうが」というある意味の正論を盾に、面倒な仕事を引受させるのが正路のやり方である。十穏やネデはこの手口で幾度も理不尽な労働に駆り出されてきた。 今度はどんなパシリをさせられるやら。こちらは学校帰りだというのにとんだ災難だ。既に疲れの色濃い目線で、連れ込まれた書斎を見回す。 壁に立ち並ぶ本棚の整理?それにしては既にきちんと整頓されている。置かれた仕事机も片付けの必要は特になさそうだ。いやそもそも、掃除ならいつもフェネキッスやギフトに頼んでいたはずである。 「正路さん、なんで俺呼び出したん…」 背後で「ガチャン」と音がした。 正路が書斎のドアを施錠したのだと分かり、言葉が詰まった。嫌な予感が胸を去来し始める。 人に見られたらまずいことでもやらされるのか? 「お前にしかできない仕事があってな。ちょっとした手伝いだ。いやあ丁度ウチに来てて助かった」 「………俺にしか?…てか、まだ手伝うって言ってないんすけど」 十穏の肩を軽く叩いた正路が実に悪どい笑みを浮かべていたものだから、嫌な予感は胸中でほとんど確信に変わった。 暇そうな悪魔たちではなく、わざわざ十穏を選んだ理由。十穏にしかできない仕事など簡単に想像がつく。この異常な聴覚を利用するつもりなのだろう。 十穏にとって迷惑千万であるものの、盗聴にこの上なく適した能力だという自覚はあった。悪用したくもなろうというものだ。これだから能力について人に話すのは嫌いだった。聞きたくない会話を聞いてしまうのと同様に、人間の知りたくなかった悪い面を知る羽目になる。 そして犯罪に利用されることよりも、能力を便利な道具として扱われる事に腹が立った。 「…やっぱ帰ります、宿題あるんで」 犯罪の片棒担がされると決まったわけではないが、いずれにせよ人目をはばかる行為を強いられるなんて御免だ。ここは逃げよう。 眉根を寄せる正路に一瞥をくれて書斎のドアへ向かった。 正路が「お前に拒否権は無い」などといつも通り強気な態度で迫るなら、こちらも相応の手を打つつもりだ。 鍵に手をかけつつ居間の様子を音だけで探る。一番近い位置にいるのはフェネキッスとルシェ。ドラマがいいところのギフトとメネはともかく、彼らは声をあげれば駆けつけてくれるかもしれない。 しかし正路は予想外の行動をとった。 十穏の眼前にひょいと紙切れが差し出される。視界いっぱいに広がった薄黄色い紙切れ、そこに書かれた馴染み深い人物と目が合い、思わず硬直してしまった。 「バイト代だ。特別に先払いしてやろう」 「ごっ…」 5000円札だ。 悔しいことに一瞬決意が揺らいだ。 金で釣るつもりかそんな汚ない手には乗らねぇぞ、ていうか金で言いくるめるってやっぱり悪いことさせるつもりだろ、と頭の大部分は拒否の意向を示している。だがどうしても今月発売のベストアルバムが思考をチラついた。買える。諦めて見送るつもりだった初回限定特典ディスク付きが買えてしまう。 これが2000円くらいならすぐ払い除けてやっただろうに。微妙に惜しい金額だ。正路は高校生の金銭事情によほど詳しいとみえる。 「い…いや屈しねぇぞ!そんなんで悪用なんか…」 「悪用?まあいいからこっち来い、仕事の説明だ」 「うわ!や、やめてください俺帰りますって!!」 5000円札を制服の胸ポケットに無理やり滑り込まされ、更に強引に腕を引かれた。近くの椅子に座らされる。 まずい。「金を受け取ったからには引き受けたも同然」なんて強引な言い分も、この男なら平気で通す。 思わず大きい声を出したが居間の悪魔たちは誰も気づいていなかった。それどころかフェネキッスは謎の悲鳴をあげているし、何やらモグモグこりこり咀嚼する音が聞こえてくるし、間の悪いことにドラマ内では女性がもっと大きい悲鳴をあげていた。ドラマを見ながら「次に誰が殺されるかゲーム」に勤しんでいたギフトとメネは楽しげな歓声を上げ、「ギフトの予想は百発百中ですぅ」とか何とか。この状況で眠り続けるトリルはよほど眠かったのか。ユミルだけは十穏の声に気づいていたかもしれないが、眠りこけるトリルに膝を貸していては身動きが取れまい。 やはり自分で何とかしなければ。肩に置かれた正路の手を振りほどき、5000円を突き返してダッシュ。これしかない。 意を決しかけたが、その意を抉くかのように正路が先手を打ってくる。 「サーベラス、出てこい」 命令と同時、目の前の床に黒い何かが点いた。 影ともインク染みともとれないそれは床を拡がり、底の見えない落とし穴へと変貌し、穴の奥底から巨大な影がせり上がってきた。驚いて瞬きする間に影の纏った闇が晴れる。サングラスを掛けた大柄な男、悪魔サーベラスが目の前に現れた。無言の一礼と共に長い尻尾が床にしな垂れ、硬質な音を立てる。 脳内に響く警鐘を更に掻き乱すが如く、音の洪水が意識に流れ込み渦を巻く。いよいよもってまずい。サーベラスは十穏の知る悪魔の中でもかなりの豪腕の持ち主だ。取り押さえられては逃げの一手も叶わない。 正路の「座れ」という指示に従い、サーベラスは近くの椅子に腰を下ろした。十穏と向かい合う形である。2メートル近い彼の体躯は静かに座っていても迫力があり、向かい合った十穏はベテラン刑事に詰め寄られる容疑者のような緊張感に包まれた。というか居間のドラマが丁度そういう場面を迎えているせいで、俳優の焦る演技にこちらの心境までシンクロしていた。 ああそうだ。彼は見た者を操る支配の魔眼を持っているのだ。目を合わせてしまえば十穏の意志に関係なく能力を悪用され… 「これからお前にはサーベラスの言葉を翻訳してもらう」 「え?」 翻訳? 予想外の単語に呆けた声が出た。 ぽかんとする十穏を椅子に軽く押さえつけたまま、正路は淡々と説明する。 サーベラスは人の声を持たない。彼の喉から発せられる音は、本体であるイヌ科の獣の鳴き声のみだ。そのためサーベラスは意思疎通の手段として筆談を主に用いるのだが、これまた困ったことに使用言語はヘブライ語やラテン語に限られている。それらの言語に理解がなければ彼と込み入った話などできないだろう。 正路はサーベラスを気に入っていた。契約について詳しく話をしたい。だが正路自身がヘブライ語を解読するのでは時間がかかりすぎる。フェネキッスに頼むのも手だが、もっと手っ取り早い方法があった。 魔眼を用いて他人の意識を乗っ取り、サーベラスの代わりに喋らせる事だ。乗っ取られた者が日本語の読み書きを心得ていれば、紙面上でのやり取りも可能になる。 「十穏。お前の体をサーベラスに借して欲しい。日本語に最も慣れ親しんだお前が適任なんだ」 「…俺にしかできない仕事って、そういう事ですか」 サーベラスが、キュン、と微かに一声鳴いた。相槌なのだろうか。十穏と正路、どちらに向けたものかは甚だ謎である。 複雑な心境で息を吐く。 十穏の集音能力を悪用するつもりではなかったのだ。よかった。大いによかった。そうとは知らず勝手に葛藤していた訳だ。 他の悪魔にバレないよう十穏だけ呼び出したのも、単に正路とサーベラスの契約話を邪魔されたくなかっただけなのだろう。一気に脱力しながら、色々疑ってスンマセンと内心正路に謝る。しかしどう見ても悪い事を企んでそうな正路の面、そして金を掴ませるなんて行為が勘違いの原因のような気もするので、謝罪は声に出さないでおく。 「最初からそうと言ってくださいよ。そういう事ならお金なんて貰わなくても…」 「じゃあお前、タダでしばらく悪魔に取り憑かれてろって言われて協力すんのか?」 「………貰えるもんは貰っときます」 大人しく椅子に座り直しての十穏の返答に、正路は満足したようだった。 大事なのは協力する意思だ。抵抗しようとする者の意識はサーベラスも奪いにくいらしい。金を握らせたのもそのためだ。などと注釈を加えながら正路が仕事机につく。だからやめてくれその悪い笑顔。 あれよあれよという間に悪魔に体を貸すことになってしまった。向かいに座り微動だにしないサーベラス。これからあの魔眼の標的になると思うと、少々不安にならないでもない。 「大丈夫なんですよね?取り憑かれるって言われるとなんか怖いんだけど」 「一度俺の体でも試してみたが特に問題なしだ。なに、寝てる間に金が貰える楽なバイトだと思えばいい」 「やってみたのかよ。そのまま正路さんが自力で翻訳して下さいよ」 「質疑応答する立場の俺が体を明け渡してどうする」 未だ煮え切らない十穏をよそに、正路は書類を取り出した。「始めるか」彼の一言でサーベラスがサングラスを外す。 低い唸り声と共に現れた瞳孔は山羊のように平たく、途端にぼんやりしてきた自意識で魔眼だということを改めて実感する。反射的に目を逸らそうとしたが、眼球も首もうまく回らない。 自分の意識がサーベラスに支配されるにつれて、今まで途切れることのなかった半径数百メートル内の喧騒が段々遠ざかってゆく。居間でタコとウサギが追いかけっこをする足音。ドラマのエンディングテーマソング。今しがた眠りから覚めたらしいトリルのあくび。すべてが少しずつ聞こえなくなる。最後にサーベラスのきゅうんという鳴き声がかすかに聞こえた気がした。 静けさというものを、耳にしたのは本当に久しぶりだった。自分が奪われている真っ最中だというのに少しだけ心地良い。 6時までにこの仕事は済むだろうか?ああそうだ、ネデが来たら中止してもらわないと。そんなとりとめのない思考すらも、深い無音に呑まれて消えていった。 ---- →[[]]
【登場キャラ(敬称略)】 [[奥田十穏]]、[[ギフト]]、[[メネ]]、[[トリル]]、[[ユミル]]、[[フェネキッス]]、[[ルシェ]]、[[真島 正路]]、[[サーベラス]] ---- 奥田十穏は黙々と宿題に取り掛かっていた。 こたつテーブルに広げた教科書の英文を和訳してゆく。英和辞書を参照しつつ、時にはインスピレーションに任せつつ。耳栓代わりのヘッドホンからはお気に入りの曲が大音量で流れている。 このマンションは学校より静かで集中しやすい。 その気になればマンション全室の音を拾い集めてしまう、過敏なまでの聴覚を持つ十穏だが、好きな曲はその厄介さを少しの間忘れさせてくれた。彼が音楽を愛する理由の一つだ。 悪魔のギフトとメネは同室の少し離れた場所にて再放送のドラマを鑑賞している。「陳腐ながらそつのないシナリオで」「どっちの方が可愛いですかぁ」等の会話を聞いていると、悪魔は宿題なんかなくていいよなあと釣られて茶々を入れたくなる。 テレビ近くのソファにはトリル、そしてユミルも座っていた。いやに静かで寝息も聞こえる。トリルは眠っているのだろう。 あとは洗濯物を畳むタコもといフェネキッス。そして何やらその背後ににじり寄るルシェくらいか。 このマンションの一室にはどういう訳か悪魔や悪魔に関わる人間がよく集まる。 十穏も本来は異界の友人であるネデやニュイに会うため訪れていた。しかし生憎今日は不在だ。彼らに会いに行けないこともないのだが、ネデがニュイと一緒なら、と考え宿題を片付けながら待つことにしていた。十穏なりに気遣ったつもりである。ネデとニュイの仲にそういう気遣いが必要かは、けっこう微妙な所ではあるが。 シャーペンを動かす手を止め伸びをする。 よし、6時まで宿題をして自宅に帰ろう。そして昨日納得いかなかった曲の録り直しを… 背後でドアの開く音がした。忌々しい聴覚が、ヘッドホン越しに誰かの近づく足音を拾う。静かな足音は十穏でなければ気づかなかっただろう。振り向いた先にはこの悪魔マンションの家主、正路が立っていた。 音を殺し、周りの悪魔たちに勘づかれないよう気を配りながら十穏に手招きをしている。人差し指を唇に当てるジェスチャー付きだ。『静かに。こっちに来い』という事らしい。 正路が人なり悪魔なりを呼びつけるのは大抵雑用を押し付けるためだ。思わずげんなりしてしまう。俺今宿題してんですけど。 十穏が面倒だから無視してしまおうかと逡巡していると、正路の視線が『こっちに来い』から『いいからさっさと来いコラ』に悪化してきた。舌打ちして蹴りでも入れんばかりの剣呑なプレッシャーに根負けし、十穏は渋々ミュージックプレイヤーの停止ボタンを押した。 正直なところ、十穏が抱く正路への心象はあまり良いものではない。 人や悪魔を平気で騙しこき使う男だ。訪れる悪魔や人間に料理を振舞うような気前の良い面も持っていたが、恐らくそれは布石に過ぎない。「タダ飯食わせてやってんだから当然だろうが」というある意味の正論を盾に、面倒な仕事を引受させるのが正路のやり方である。十穏やネデはこの手口で幾度も理不尽な労働に駆り出されてきた。 今度はどんなパシリをさせられるやら。こちらは学校帰りだというのにとんだ災難だ。既に疲れの色濃い目線で、連れ込まれた書斎を見回す。 壁に立ち並ぶ本棚の整理?それにしては既にきちんと整頓されている。置かれた仕事机も片付けの必要は特になさそうだ。いやそもそも、掃除ならいつもフェネキッスやギフトに頼んでいたはずである。 「正路さん、なんで俺呼び出したん…」 背後で「ガチャン」と音がした。 正路が書斎のドアを施錠したのだと分かり、言葉が詰まった。嫌な予感が胸を去来し始める。 人に見られたらまずいことでもやらされるのか? 「お前にしかできない仕事があってな。ちょっとした手伝いだ。いやあ丁度ウチに来てて助かった」 「………俺にしか?…てか、まだ手伝うって言ってないんすけど」 十穏の肩を軽く叩いた正路が実に悪どい笑みを浮かべていたものだから、嫌な予感は胸中でほとんど確信に変わった。 暇そうな悪魔たちではなく、わざわざ十穏を選んだ理由。十穏にしかできない仕事など簡単に想像がつく。この異常な聴覚を利用するつもりなのだろう。 十穏にとって迷惑千万であるものの、盗聴にこの上なく適した能力だという自覚はあった。悪用したくもなろうというものだ。これだから能力について人に話すのは嫌いだった。聞きたくない会話を聞いてしまうのと同様に、人間の知りたくなかった悪い面を知る羽目になる。 そして犯罪に利用されることよりも、能力を便利な道具として扱われる事に腹が立った。 「…やっぱ帰ります、宿題あるんで」 犯罪の片棒担がされると決まったわけではないが、いずれにせよ人目をはばかる行為を強いられるなんて御免だ。ここは逃げよう。 眉根を寄せる正路に一瞥をくれて書斎のドアへ向かった。 正路が「お前に拒否権は無い」などといつも通り強気な態度で迫るなら、こちらも相応の手を打つつもりだ。 鍵に手をかけつつ居間の様子を音だけで探る。一番近い位置にいるのはフェネキッスとルシェ。ドラマがいいところのギフトとメネはともかく、彼らは声をあげれば駆けつけてくれるかもしれない。 しかし正路は予想外の行動をとった。 十穏の眼前にひょいと紙切れが差し出される。視界いっぱいに広がった薄黄色い紙切れ、そこに書かれた馴染み深い人物と目が合い、思わず硬直してしまった。 「バイト代だ。特別に先払いしてやろう」 「ごっ…」 5000円札だ。 悔しいことに一瞬決意が揺らいだ。 金で釣るつもりかそんな汚ない手には乗らねぇぞ、ていうか金で言いくるめるってやっぱり悪いことさせるつもりだろ、と頭の大部分は拒否の意向を示している。だがどうしても今月発売のベストアルバムが思考をチラついた。買える。諦めて見送るつもりだった初回限定特典ディスク付きが買えてしまう。 これが2000円くらいならすぐ払い除けてやっただろうに。微妙に惜しい金額だ。正路は高校生の金銭事情によほど詳しいとみえる。 「い…いや屈しねぇぞ!そんなんで悪用なんか…」 「悪用?まあいいからこっち来い、仕事の説明だ」 「うわ!や、やめてください俺帰りますって!!」 5000円札を制服の胸ポケットに無理やり滑り込まされ、更に強引に腕を引かれた。近くの椅子に座らされる。 まずい。「金を受け取ったからには引き受けたも同然」なんて強引な言い分も、この男なら平気で通す。 思わず大きい声を出したが居間の悪魔たちは誰も気づいていなかった。それどころかフェネキッスは謎の悲鳴をあげているし、何やらモグモグこりこり咀嚼する音が聞こえてくるし、間の悪いことにドラマ内では女性がもっと大きい悲鳴をあげていた。ドラマを見ながら「次に誰が殺されるかゲーム」に勤しんでいたギフトとメネは楽しげな歓声を上げ、「ギフトの予想は百発百中ですぅ」とか何とか。この状況で眠り続けるトリルはよほど眠かったのか。ユミルだけは十穏の声に気づいていたかもしれないが、眠りこけるトリルに膝を貸していては身動きが取れまい。 やはり自分で何とかしなければ。肩に置かれた正路の手を振りほどき、5000円を突き返してダッシュ。これしかない。 意を決しかけたが、その意を抉くかのように正路が先手を打ってくる。 「サーベラス、出てこい」 命令と同時、目の前の床に黒い何かが点いた。 影ともインク染みともとれないそれは床を拡がり、底の見えない落とし穴へと変貌し、穴の奥底から巨大な影がせり上がってきた。驚いて瞬きする間に影の纏った闇が晴れる。サングラスを掛けた大柄な男、悪魔サーベラスが目の前に現れた。無言の一礼と共に長い尻尾が床にしな垂れ、硬質な音を立てる。 脳内に響く警鐘を更に掻き乱すが如く、音の洪水が意識に流れ込み渦を巻く。いよいよもってまずい。サーベラスは十穏の知る悪魔の中でもかなりの豪腕の持ち主だ。取り押さえられては逃げの一手も叶わない。 正路の「座れ」という指示に従い、サーベラスは近くの椅子に腰を下ろした。十穏と向かい合う形である。2メートル近い彼の体躯は静かに座っていても迫力があり、向かい合った十穏はベテラン刑事に詰め寄られる容疑者のような緊張感に包まれた。というか居間のドラマが丁度そういう場面を迎えているせいで、俳優の焦る演技にこちらの心境までシンクロしていた。 ああそうだ。彼は見た者を操る支配の魔眼を持っているのだ。目を合わせてしまえば十穏の意志に関係なく能力を悪用され… 「これからお前にはサーベラスの言葉を翻訳してもらう」 「え?」 翻訳? 予想外の単語に呆けた声が出た。 ぽかんとする十穏を椅子に軽く押さえつけたまま、正路は淡々と説明する。 サーベラスは人の声を持たない。彼の喉から発せられる音は、本体であるイヌ科の獣の鳴き声のみだ。そのためサーベラスは意思疎通の手段として筆談を主に用いるのだが、これまた困ったことに使用言語はヘブライ語やラテン語に限られている。それらの言語に理解がなければ彼と込み入った話などできないだろう。 正路はサーベラスを気に入っていた。契約について詳しく話をしたい。だが正路自身がヘブライ語を解読するのでは時間がかかりすぎる。フェネキッスに頼むのも手だが、もっと手っ取り早い方法があった。 魔眼を用いて他人の意識を乗っ取り、サーベラスの代わりに喋らせる事だ。乗っ取られた者が日本語の読み書きを心得ていれば、紙面上でのやり取りも可能になる。 「十穏。お前の体をサーベラスに借して欲しい。日本語に最も慣れ親しんだお前が適任なんだ」 「…俺にしかできない仕事って、そういう事ですか」 サーベラスが、キュン、と微かに一声鳴いた。相槌なのだろうか。十穏と正路、どちらに向けたものかは甚だ謎である。 複雑な心境で息を吐く。 十穏の集音能力を悪用するつもりではなかったのだ。よかった。大いによかった。そうとは知らず勝手に葛藤していた訳だ。 他の悪魔にバレないよう十穏だけ呼び出したのも、単に正路とサーベラスの契約話を邪魔されたくなかっただけなのだろう。一気に脱力しながら、色々疑ってスンマセンと内心正路に謝る。しかしどう見ても悪い事を企んでそうな正路の面、そして金を掴ませるなんて行為が勘違いの原因のような気もするので、謝罪は声に出さないでおく。 「最初からそうと言ってくださいよ。そういう事ならお金なんて貰わなくても…」 「じゃあお前、タダでしばらく悪魔に取り憑かれてろって言われて協力すんのか?」 「………貰えるもんは貰っときます」 大人しく椅子に座り直しての十穏の返答に、正路は満足したようだった。 大事なのは協力する意思だ。抵抗しようとする者の意識はサーベラスも奪いにくいらしい。金を握らせたのもそのためだ。などと注釈を加えながら正路が仕事机につく。だからやめてくれその悪い笑顔。 あれよあれよという間に悪魔に体を貸すことになってしまった。向かいに座り微動だにしないサーベラス。これからあの魔眼の標的になると思うと、少々不安にならないでもない。 「大丈夫なんですよね?取り憑かれるって言われるとなんか怖いんだけど」 「一度俺の体でも試してみたが特に問題なしだ。なに、寝てる間に金が貰える楽なバイトだと思えばいい」 「やってみたのかよ。そのまま正路さんが自力で翻訳して下さいよ」 「質疑応答する立場の俺が体を明け渡してどうする」 未だ煮え切らない十穏をよそに、正路は書類を取り出した。「始めるか」彼の一言でサーベラスがサングラスを外す。 低い唸り声と共に現れた瞳孔は山羊のように平たく、途端にぼんやりしてきた自意識で魔眼だということを改めて実感する。反射的に目を逸らそうとしたが、眼球も首もうまく回らない。 自分の意識がサーベラスに支配されるにつれて、今まで途切れることのなかった半径数百メートル内の喧騒が段々遠ざかってゆく。居間でタコとウサギが追いかけっこをする足音。ドラマのエンディングテーマソング。今しがた眠りから覚めたらしいトリルのあくび。すべてが少しずつ聞こえなくなる。最後にサーベラスのきゅうんという鳴き声がかすかに聞こえた気がした。 静けさというものを、耳にしたのは本当に久しぶりだった。自分が奪われている真っ最中だというのに少しだけ心地良い。 6時までにこの仕事は済むだろうか?ああそうだ、ネデが来たら中止してもらわないと。そんなとりとめのない思考すらも、深い無音に呑まれて消えていった。 ---- →[[十穏君メインの日常話・続き/大樹]]に続く

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